2006年08月31日

散文の断片「星空の下の会話」

広い草原には一本の大きな木がありました。
その木の下で、一人の人間と一頭の馬が眠っていました。

ふと、その人は目を覚ましました。
虫の音が草原に優しく響いています。
ふと頭上を見上げました。
真っ暗です。星一つ見えません。
一瞬、その人は落胆しました。
でもよく考えれば、ただ木の下にいるから星が見えなかったに過ぎません。

その人は空の見える場所まで歩きました。
するとどうでしょう。
これまでに見たことのないような美しい星空が広がっていました。

「きれいな星空・・・」
とその人が言うと、
「あれ、空に星なんて見えないよ」
と馬は言いました。
「あれ?起きていたのかい?」
「なんか、一人の人間が夜中にこそこそ怪しく起き出したものでね。ねぇ、全然星なんて見えないよ」
「それは君が木の下にいるからだよ」
「・・・ああそうか。恥ずかしいな。なかなか単純なことに気がつけないものだね」
「でも単純なことのせいで、生きていくのにずいぶんと苦しめられるものだよ」

そう言う人間の隣に馬は近づきました。
「すごい!こんなにきれいな星空を見れるなんて、足止めも悪くないね」
「こういうことは稀だけどね」
「まあ確かにね。でもこういうことがあると、足止めを積極的にしたいとさえ思えてしまうよ」
「ははは。気持ちは分かるよ。けど、足止めを目的にしてしまったらおしまいだよ。それは行き止まりになってしまう」
「ああ、それと似たようなことがあったね。昔の話だけど」
「そうそう。そういうことだよ。でも、足止めに意味を見出すのは無駄なことではないよ。ただ、それには人生経験って奴が必要さ」
「馬にとっての馬生経験だね。そいつは重要だ」

さっきまで降っていたであろう雨の露が草からひんやりと伝わります。
それは、とても心地の良いものでした。
「それにしてもきれいな星空だな。決して自分には届きそうにない」
「今日はずいぶんとセンチメンタルですね」
「たまにはいいね。こういう日も。一晩中この空を眺めていたい」
「こちらとしては遠慮させてもらうよ。明日は晴れてしごかれそうだよ。ということで、今のうちに休んでおくよ」
「しごきはしないけど、明日は走ってもらうよ。よろしくね」
「いやいや、こちらこそ。方向を決めるのは君に任せてあるから」
そう言うと、馬はすぐに眠りにつきました。
その人も、しばらく星空を見ていましたが、馬のそばで眠りにつきました。

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2006年08月29日

散文の断片「雨の中の会話」

広い草原には一本の大きな木がありました。
その木の下に、一人の人間と一頭の馬がいました。
「ふう、疲れた。ここで一休みとしようか?」
その人は言いました。すると、
「そうだね、賛成」
と馬は言いました。

木の下に腰を下ろすと、さっきまで晴れていた空が曇ってきました。
「やれやれ、これは雨が降りそうだ」
と、その人は言うと、
「うん、もうどこか遠くでは雨が降り出しているよ」
と、その馬は言いました。

しばらくすると、ここでも雨が降り出しました。
「あーあ、降ってきちゃった。しばらく止みそうにない」
「しばし休憩だね。雨が止んだら出発するの?」
「さあね。出発したいと思ったら出発するよ。雨が降っていようともね」
「えー、それは嫌だ。雨になんて濡れたくないよ。それに、雨の中を無理に出発して、この前みたいになるのはごめんだよ。あの時は死ぬかと思った」
「そんなこともあったね。でも、同じことが繰り返されるとは限らないさ」
「あれ?人は過去から何かを学ぶものではないのかい?」
「その通りだよ。この前はああなったら、あんな結果が起こるとは思ってはいなかった。でも今回はそれを知っているから、もし似たような状況になれば、他の道が見つかるかもしれない」
「それって、強引な論理じゃない?馬としては理解しがたいね」
「ははは。でも大丈夫。今は同じことを繰り返すつもりはないし、この雨の中を出発しようとも思わないよ」

雨の水滴は草原に滴り落ちる。次第に雨音は大きくなる。
「それにしても、雨は降り続くね。いつ止むのかも分からない。最近、思うように進むことが出来なくて、君が落ち込んでいないか心配だよ」
「ありがとう。それほど落ち込んではいないよ。思い通りにいかないのは、当たり前のことだからね。思い通りにいかないことを呪うより、こういう足止めをしている時に出来ることはないか考えていたよ」
「へぇ、そいつは感心!じゃ、一つ、やってほしいことがあるよ」
「何かな?」
「荷物を減らすことは出来ないかい?もう少し軽くなりたいよ」
「なるほど。考えてはみるけど、たぶん減らないと思うよ」
「どうしてさ〜、ケチ!」
「分かった、分かった。しっかり考えるから」

相変わらず草原には雨が降り続いています。
次第に辺りは暗くなってきました。
「どうやら、今晩はここで夜を明かすことになるよ」
「そうみたいだね。でもこの木の下ならぐっすり眠れる気がするよ」

雨が降り続く中、草原に夜が訪れました・・・。
posted by のっち at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩・散文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月22日

映画「蟻の兵隊」

蟻の兵隊.jpg

あらすじはホームページからの引用です。

今も体内に残る無数の砲弾の破片。それは“戦後も戦った日本兵”という苦い記憶を 奥村 和一 ( おくむら・ わいち ) (80)に突き付ける。
  かつて奥村が所属した部隊は、第2次世界大戦後も中国に残留し、中国の内戦を戦った。しかし、長い抑留生活を経て帰国した彼らを待っていたのは逃亡兵の扱いだった。世界の戦争史上類を見ないこの“売軍行為”を、日本政府は兵士たちが志願して勝手に戦争をつづけたと見なし黙殺したのだ。
 「自分たちは、なぜ残留させられたのか?」真実を明らかにするために中国に向かった奥村に、心の中に閉じ込めてきたもう一つの記憶がよみがえる。終戦間近の昭和20年、奥村は“初年兵教育”の名の下に罪のない中国人を刺殺するよう命じられていた。やがて奥村の執念が戦後60年を過ぎて驚くべき残留の真相と戦争の実態を暴いていく。


いくつか箇条書きに感想を書きました。

○中国人女性との対談
一番印象に残った場面。
戦争中、日本兵の被害を受けた中国人女性と対談する。
その中で「いまのあなたは悪人には見えません」と女性は奥村氏に言う。
こういうのが和解なんだなぁ、と感じた。
戦闘が終結して和平条約を結んでも、それは個人の和解にはつながらない。
奥村氏のような姿勢と、中国人女性のような姿勢があってはじめて成り立つものなのだなと思った。
しかし、両者がそのような姿勢になるまでには、どのような心理的な葛藤があったのだろうか?
ちょっと想像するだけで、ズキズキと痛むものがある。
戦争に生き残ったとしても、重いもの背負って生きていかなければならない。
そのような状態を作り出す戦争を正当化することは、僕にはできない。
リアリズムなハードパワー論では戦争・軍備は必要不可欠なのかもしれないけど、どうにかならないものか考えてしまう。

○唸り声
一番胸に焼き付いている場面。
ベットで寝たきりの上官の元に会いに行く。
「もう何も分からないので・・・」と上官の娘は言う。
だけど、奥村氏が言葉をかけると、なにかを伝えたいのかうめき声を上げる。
そのうめき声はすさまじいものだった。
生きる最後の力を振り絞っての声のように感じた。
やはり、真実が証明されないというのは悔しい思いがした。

○組織
組織の中で個人はどのように扱われるのでしょう?
一時期、ある宗教団体に所属していたうちの母は、その頃を思い出すとこんなことを言う。
「組織の中で個人の感情は排除される。個人に自由はない。自由だと思わせられる」
宗教組織と軍隊組織を同一視することに妥当性はないかもしれませんが、いくつかの共通点はあると思う。
軍隊組織の中でも個人はないがしろにされる面があると感じます。
そして、個人という感覚が麻痺したとき、上官の命令を素直に受け入れ人を殺してしまうのだと思った。

○権力者
残留を命令したと思われる男は、中国と密約を交わして、部下を置いてのうのうと日本に帰国したと映画では伝えている。
こういう権力者はごろごろいると感じた。
戦争というのは権力者(または国家)が個人をないがしろにする罪も持ち合わせているのだとあらためて感じた。
個人より大事なものがあると多くの人間が信じたとき、容易に戦争が起きてしまうのでは、と感じた。

○裁判
棄却理由などを詳しく知りたかった。
また、裁判・司法に関してあまり分からないので、簡単な下地程度のことは知っておきたいと思った。


それから、全体を通して感じたのは自分の勉強不足です。
知らないことが多すぎるので、感覚的な感想でストップしていた自分に気がつきました。
普通の映画を観るのなら感覚的でいいと思いますが、こういう映画を観るときは、感覚的なものと論理的なものの両方を備えて観れるようになりたいと思いました。

この映画ではドキュメンタリーという手法で戦争はよくないということをあらためて感じた。
だが、いつも思うことだが、戦争はよくないと感じているだけでは何も変わらないと思う。
戦争はいいか悪いかと問われて、多くの人間は悪いと答えるだろう。
でも、戦争はなくなってはいない。
戦争はよくないという認識は大切だけど、戦争をなくす、少なくとも減少させるためには何が必要かというふうに考えを発展しなければ、戦争はなくならないと思う。
posted by のっち at 08:50| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月17日

散文「あかないかばん」

旅人はかばんを持って旅をしていた。
日も暮れたころ、とある町に着いた。
旅人は町にあったとある宿に入った。

宿の人に部屋へと案内される。
この時、かばんを宿の人に持ってもらった。
「ずいぶんと重いかばんですね。何が入っているのでしょう?」
宿の人は、かばんのあまりの重さに声に出した。
旅人は何も言わず、ただ微笑んでいるだけだった。
それ以上は宿の人も何も言わず、部屋へとたどり着いた。

旅人は部屋に入るなり、疲れたような顔をした。
そして、入り口の鍵を閉めた。
すると、おもむろにポケットから様々な鍵を取り出した。
その1つ1つをかばんの鍵穴に差し込んでみる。
だが、ぴったり合う鍵はなかった。
「まただめだったか・・・」
旅人は開かないかばんを放り投げ、眠りについた。

次の日、旅人は開かないかばんを持って宿を後にした。
町の出口に向かう途中、一人の人が近づいてきた。
「かばんの鍵を探しているのはあなたですか?」
旅人はうなずいた。
「では、この鍵をお使い下さい」
そういうと、1つの古びた鍵を手渡した。
「さあ、その鍵を試して下さい」
言われるままに旅人は、鍵を差し込み、回してみる。
すると、カチャッと音がした。
「よかった、この鍵が役に立った。ところで、どんな物がかばんに入っているのですか?」
「実はもう忘れてしまったのです。旅を始めたとき、希望をたくさんかばんにつめたような気がします。でも今となれば、希望と思っていたものは絶望だったのかもしれません」
「そのような何か分からないものを持って、旅をしてきたのですか?」
「いつの間にか私にとって、開かないかばんの鍵を探すことが旅の目的となりました。そして、本当の旅の目的も分からなくなってしまいました」
「そうですか・・・。では私がかばんの中身を見ることは、不都合かもしれませんね。私はこの場を離れましょう。ではお元気で」
その人はその場を立ち去った。

旅人はおそるおそるかばんを開く。
旅人は何をかばんに入れ、旅をしてきたのだろうか?

かばんの中はからっぽだった。
ほこり一つ入っていなかった。
からっぽのかばんを持って旅人は長い間、旅をしてきた。

旅人はかばんを置いて行こうと思った。
何も入っていなく重いかばんなんて、旅をするのに邪魔なだけだ。
旅人は立ち上がり、何も持たずに歩き出した。
何も持っていないのは心地いい。
気分が軽くて、晴れやかな気分だった。

だが、少しすると空しくなった。
両手に何もないのが不安になった。
仕方なく旅人はあのかばんを取りに戻った。
そして、からっぽのかばんを持って再び歩き出した。
posted by のっち at 23:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 詩・散文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月15日

この日に思ったことの断片

終戦の日ですね。
目をつぶって亡くなった方々のことを思いました。
1日中マスコミは騒がしかったですね。
騒ぎすぎとも感じます。
僕の身内で「英霊」になった方はいらっしゃらないので、神社にはなんの感情も持っていません。
好きでもなければ、嫌いでもありません。
神社そのものについて肯定も否定もするつもりはありません。

この日はその神社の問題がいつも取り上げられますね。
賛成、反対どちらの意見にもそれなりの正当性があると思います。
最近はあとは好みの問題のような気さえします。
A級戦犯、アジア外交、国益、信教の自由、政教分離、神社の成り立ち、ナショナリズム、東京裁判・・・。
いろんな問題が存在して、それぞれについてそれなりに考えたりはしていますが、理論的に支離滅裂で納得のいく思考はできていない。
だが、少なくとも言えることは、今日は戦争で犠牲になった全ての人々に対して、自発的な慰霊を個人として行うのが理想だと感じています。
ここでは上記の問題ではなく慰霊について考えたことの断片でも書いてみました。

慰霊という行為は精神的な行為、つまり目に見えない部分で行われる行為であると考えます。
では、慰霊とはどこで行われるべきなのであろうか?
個人的には、その個人の宗教や信教に基づいて行われれば、それは立派な慰霊であると感じています。
だから、神社でも寺でも教会でも自分の家でも戦争で犠牲になった方々のことを思い、慰霊を行うことはできると思います。
一般人であるならば、他人に危害を加えない限りさまざまな慰霊の形があると思います。

しかし、国のトップにある人間がある特定の場所で慰霊を行うのには賛同しかねます。
宗教世界が具体化された場所を国家のトップが利用するのは、国民の持つ宗教の自由を間接的に歪めてしまう懸念があります。
国のトップの持つ人間の社会的影響力を考慮しなければならないと思います。
慰霊という行為は自発性を持って行われるべきであり、特定の宗教であれ無宗教であれ個人の慰霊の形に影響を与える行為を最も権力のある人間、つまり首相が行ってはならないと思います。
どんなに私人と言おうが、実質的には公人であるというのが個人的解釈です。
公人がマスコミや公衆の前で行う行為は当人の意図しない他者の精神に影響を与えてしまうことを考えて欲しい。

とは言うものの、現実的な視点で見れば全然だめな考えだな。
考えるべきことは山のようにあります・・・。
最後に、いつか静かな終戦の日が訪れることを願っています。
posted by のっち at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月10日

本「子どもたちのアフリカ」

子どもたちのアフリカ.jpg
「子どもたちのアフリカ」
アフリカにおける子どもの現状にスポットを当てた本。
「エイズ孤児」「性的虐待」「女性器切除」「子ども労働」「少年兵」「奴隷制」の6っつについて書かれている。
アフリカの諸問題についての入門書と言えよう。

アフリカの子どもたちの状態について断片的な話としては知っていたが、こうまとめて読んでいくと、酷すぎる。
どこにも希望がない。
さまざまな国での事例が出てくるが、子どもの置かれた状況は最悪だ。
社会がボロボロで、子どもを守ることが出来ていない。
閉鎖的な地域社会、または閉鎖的な家族制度によって、声を外に向かってあげることが困難な環境。
子どもはわずかなお金で、様々に利用されていく。
問題を解決していくには、複雑に絡み合った糸を丁寧に解きほぐしていく必要があると思った。
あと何年、何十年かかるか分からないけど。
posted by のっち at 18:28| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月09日

本「ジェノサイドの丘」

ジェノサイド.jpgジェノサイドb.jpg

「ジェノサイドの丘(上下巻)」
ずいぶん前に上巻は読んでいたが、テストやなんやら忙しく下巻を読んでいなかった。
テストも終わり、レポートもだいたい終わったので読んでみた。

1994年の起きたルワンダ虐殺について書かれた本です。
ルワンダ虐殺とは、ルワンダの多数派フツ族による少数派ツチ族の虐殺である。
100日間で80万人から100万人もの人々が殺されたという。

この本を読むと思うことや考えることがたくさんある。
なぜ、虐殺が起きたのか?
虐殺を防ぐことは出来なかったのか?
民族の違いとは何か?
民族の違いがなぜ排除の方向に向かうのか?
植民地支配の影響とは?
国際社会はなぜルワンダを無視したのか?
国連はなぜ機能しなかったか?
ならば、国連・国際社会は何をすべきだったのか?
国連の機能を向上するにはどうしたらいいか?
国際法や国際条約のあり方とは?
難民キャンプがなぜフツ族至上主義者の拠点となったのか?
難民による人道に反する犯罪をどのように扱えばよいのか?
どのように和解を行えばよいのか?
・・・。
挙げればきりがないんだけど、いろいろ考えます。

恐ろしいと感じたことが2つありました。
一つは民間人が民間人を殺すということ。隣同士が殺しあうということ。人間は一つの方向にどこまでもつき進んでしまうと、ここまでのことをやってしまうのかという恐怖。
もう一つは世界がほとんどといっていいほど無視をしていたということ。無視や無関心というものに対する恐怖。

この本はルワンダ虐殺から3年後の1997年に起きたある事件が書かれて終わっている。
ギセニィの学校での襲撃は、ギブイェが襲われたときと同じく、十代の少女ばかりの生徒たちは寝ているところをたたき起こされ、分かれるように命じられた――フツ族とツチ族に。だが生徒たちは拒んだ。どちらの学校でも、自分たちはただルワンダ人であると少女たちは言った。そのため全員が無差別に殴られ射殺された。

ツチ族でもフツ族でもなくルワンダ人と答える。
だけど、殺された。
何のために?
なぜ殺されなければならないのか?
この文章を読んだ時、とてつもない怒りと悲しみが沸いた。
posted by のっち at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月03日

詩「音のない記憶」

ヘッドホンをつけて外に出た
太陽がまぶしい
夏のうだるような暑さ
電車に乗って山里にある川を目指す
電車の中はひどく寒い
ヘッドホンの音量を上げてみる

田舎の駅に着く
そのまま川に向かう
山の方に入って行き、森を抜けて、川に出る
川原に足を入れてみる
ひんやりとしている
ヘッドホンからは何かの音楽が流れている
僕はここに来るまでどんな音楽を聴いていたのだろう
何も覚えていない
あるのは音のない記憶

ヘッドホンを外してみる
そうすると、たくさんの音が溢れていた
蝉が夏を精一杯伝えている
川のせせらぎが足の心地よさを全身に伝える
風が木の葉をざわめかせている
どこかで鳥が鳴いている
体をたくさん開いていろんな音に耳を傾けた

ヘッドホンを鞄に入れたまま立ち上がる
帰り道、サンダルのペタペタした音がする
草を踏むとシャッシャッと音がする
森の中ではかすかに虫の音がする

電車の中では
隣に座っているグループの一人の声が
昔の友達の声と似ていた
懐かしかった

家の近くの駅に着く
都会の喧騒
けたたましい車の音
クーラーの排気口の無機質な音
人々のうねるようなざわめき
夏の日差しの中で蜃気楼のようだ
蝉は夏を精一杯伝えている

家の近くでは子供が楽しそうにきゃっきゃっと遊ぶ声
老婆が散歩しながら歌う静かな歌
今日の終わりを告げる少し涼しい虫の声
posted by のっち at 21:27| Comment(8) | TrackBack(0) | 詩・散文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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