2008年08月31日

動き出す!

「絶望のなかのほほえみ」という写真集を読みました。
カンボジアのエイズ患者を撮影した写真集です。

本の表紙に使われている写真。
女性が一人、ベットの上に座っている。
写真を撮る前にこんなやりとりがあった。
「いつ死ぬかもしれないから、その前に写真を撮っておくの」と彼女は言い、お化粧をしてきれいな服を着て…。
その撮影された写真を見ていて、心にグサリときて、何も言えなくなった。

この写真は生きた証。
命ってこんなにもかけがえのないものなのだよ。
そんなことを写真から感じた。


本の中にエイズ患者以外にも、ダンスを踊る若者や、ビールを美味しそうに飲む人の写真が数枚ある。
なんか、この差って何なんだろうね…。




さてさて昨日、何か新しいこと始めたいと考えている人たちで集まりがありました。
深夜まで、いろいろと話したな〜。
学生の合宿みたいな雰囲気で楽しかった。
カレー作ったり、畳の上にみんなでざこ寝したり(笑)

名前は「社会人でもできること」を略して「シャカ☆デキ」
1つプロジェクトも動き出します。
ゼロから作っていくのは大変だけど、わくわくしてきたぞ!
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ある兵士の記憶〜戦場編〜

ある兵士の記憶〜戦場編〜



気がついたら私は銃を手にしていた。
慣れない軍服に身を包み、自分を隠していた。


広い草原の中、身をかがめながら進んでいる。
命令をされたから進んでいるだけだ。
隣の兵士の顔は強張っている。
敵兵がいつ襲ってくるか分からない、緊張感が漂う。


突然の怒号と共に、銃声が鳴り響く。
自分を守るため、銃を構える。
目の前に銃を構えている敵兵が目に入った。
銃口は間違いなく私を向いている。

殺したいと言う気持ちはなかった。
ただ恐怖が溢れただけ。
私はとっさに相手へ銃口を向け、引き金を引いた。

銃弾が相手の肉体にのめり込む。
緑の草原が、赤く染まった気がした。
相手は私を見ながら倒れていく。

銃声と奇声が鳴り止まない。
私の手は震えている。
手の震えるのを忘れるため。
銃を撃ち続けた。



どのくらい時間がたったのだろう。
いつの間にか、私は草原に倒れて気を失っていた。
意識が戻り、辺りの様子をうかがう。
銃声は止んでいるようだ。
ひどく静かだ。


立ち上がると、いくつもの死体が転がっているのが見えた。
味方だった人間の死体、敵だった人間の死体。
死んでしまえば、同じ死体だ。


見渡すと、横たわりながらも口元がわずかに動いている兵士がいた。
私が撃った敵兵だ。
私は銃を構えて恐る恐る近づいた。
何か声を出しているが何と言っているのか分からない。

敵兵の体を見ていると、もう腕や足は動きそうにない。
目だけが何かを強く訴えかけるようにして、私を見ていた。
その目は憎しみや怒りの目ではなかった。
敵兵の口元に耳を当て、何と言っているのか聞き取ろうとした。

敵兵は相手の土地の言葉で「胸ポケット…胸ポケット…」と言っているようだ。
私は敵兵が動ける状態でないことをもう一度確認して、相手の胸ポケットに手を入れた。


すると、しわしわの写真が出てきた。
一人の女性と、小さな子どもの写真だった。
その写真を敵兵の目の前にかざす。
すると、目を細めておだやかに笑った。
そして、また口元がわずかに動いて、静かに目を閉じた。
私は彼の胸に、そっと写真を置いた。

私も自分の胸ポケットに手を入れて写真を取り出した。
妻と子どもの写真だ。
その写真をじっと見つめた。
そして今、この世から消えた命の上にある写真を眺めた。
しばらく私は動けなくなり、ただ涙が溢れてきた。

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2008年08月24日

アフガン、ロンドン、大阪

「アフガニスタンの子どもたち」という写真展に行きました。
写真提供はNGOのピースウィンズ・ジャパン。
現地の子どもたちに使い捨てカメラを渡して、子どもたちが撮った写真を展示していました。
アフガニスタンの人々の日常の風景を感じた。
写真からは苦しさとか悲しさじゃなくて、穏やかな雰囲気が伝わった。
それがとってもよかった。
展示会場にはアフガニスタンに駐在していたスタッフの方がいらっしゃって、いろいろとお話をすることが出来ました。
ご興味ある方はこちら参照:http://www.peace-winds.org/jp/news/archives/080815_1545.html



「この自由な世界で」という映画を観た。
あらすじ
一人息子を両親に預けて働くアンジー(カーストン・ウェアリング)は、勤め先の職業紹介会社をクビになる。
彼女は自分で職業紹介所を立ち上げようと決意し、ルームメイトのローズ(ジュリエット・エリス)を共同経営に誘う。
アンジーは必死にビジネスを軌道に乗せるが、ある日不法移民を働かせる方がもうかることを知り……。(シネマトゥデイ)


救いようのない労働者の現実を見たような気がした。
東欧などからの移民も多いロンドンを舞台にした話です。

主人公のアンジーは、仕事をクビになり生きていくために自分の子どものために、どうにかお金を稼ごうとする。
最初は法に触れない職業紹介所を開く。
ある時、取引先から不法移民を働かせる方がもうかることを聞かされる。
不法移民を働かせることは違法で、もうかる話を聞いても始めは拒否するが、手を染めてしまう。
でも、それを始めるキッカケを作ったのが、不法移民をしていて仕事がなく収入もない一家を助けたいという優しさから、と自分は映画から読み取った。
で、この映画のすごいのは、主人公がそこからさらに「お金を稼ぐため」に仕事に取り組む姿に戻ってしまう。
あ〜、金って怖い。
自由だと言われる社会で、お金に縛られて生きている。


先進国と呼ばれる国では、制度上自由は保障されている。
でも、その自由を社会的弱者は行使できる環境にあるのだろうか。

日本でも近い将来、外国人労働者の問題とか起きるであろうことだろうな。
もしも「今の経済規模を維持したい」のであれば、日本は少子化で労働人口が少なくなるから、海外から労働者を受け入れなくちゃいけなくなる。
日本社会は、摩擦や誰かの不幸を極力生むことなく、そのような時代を迎えることができるだろうか…。

それにしてもなんでこんなに社会に「差」があるんだろうな。
なんかの本に、国の崩壊する原因の1つに経済格差が広がりすぎることがあげられていた。
現代の世界の経済格差は歴史的に見てもかなり開いているらしい…。

そんなことを思っていたら、ニュースで福田首相が「GDPを世界10位以内にする」と言っているのを聞いた。
自分はこれは違うと思う。
社会をよりよくするために政治を行った結果として、GDPが世界10位以内に入るなら問題はない。
だけど、始めからGDP10位以内を目指すって、目標と手段を混同してるんじゃね、と思う。
GDPを上げることは、社会をよくする手段の1つに過ぎなくて、まんま目標とするのは何か違うと思う。
しかも、GDPが上がったからって、その恩恵を一般人が受けるとは限らない。



ジグムント・バウマン著「コミュニティ」という本をだいぶ前に買った本だけど、ようやく読み終わった。
久々にアカデミックな専門書だったんで、読むのに苦労した。
内容が「この自由な世界で」で取り扱われた題材と重なる部分があって、興味深かった。
もてはやされている「多文化主義」に関して、鋭い指摘をしていて、その先を見出そうとしている感があった。
人間同士の間で「差異」を感じそれが「不安」を生み「安心」を享受できず「排除」をしようとする。
でも、そこで大事なのは「他者同士で共通の人間性を探求すること」なんだろうな、と思った。
あ〜、なんだかちゃんと勉強したい。


昨日の夜は飲みました。
一昨日も飲みでした(笑)
昨日は大阪串カツのお店でした。
店員のおっちゃんが面白すぎ。
注文を受けると大きな声でギャグを連発する!
何と言っていたかあんま覚えていないけど、とにかくギャグ、ギャグ、ギャグ!!
大いに笑わせて頂きました(笑)
また行こうかな〜。
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2008年08月17日

ノー・マンズ・ランド

「ノー・マンズ・ランド」という映画を観た。

ボスニア紛争を題材にした映画。
ボスニアとセルビアの中間地帯ノー・マンズ・ランドの塹壕に取り残された、ボスニア軍兵士のチキ、ツェラ、セルビア軍兵士のニノ。
ツェラは地雷の上に横たわって身動きが取れない。
彼らを「人道援助」という「建前」のもと救出に向かう国連とニュースに群がるマスコミ。
世界の縮図が「塹壕」という狭い中に集約されたかのような話。


チキとニノは互いにけん制し合う。
「戦争を始めたのはお前らだ!」と言い争う。
武器を奪い合って、武器を得た方の主張がまかり通る。

でも、共通の女性の知り合いがいて、少し打ち解けるようなシーンもある。
そんなシーンも武器を手に持つと、打ち解けたことは無に帰す。
武器がなけりゃ分かり合える可能性があるんだ。
だけど、武器を持ってお互いを傷つけ、争いが始まった時より憎しみが大きくなってしまう。


国連の若いフランス兵は「傍観は中立ではなく加担しているのと同じ」との趣旨の発言をする。
だけど、その上官は自分の保身のほうを大切にしている。
マスコミがいる前でのパフォーマンスを考えたりする。
そして、実際に暴力が起きた時、国連にはどうすることも出来ない。


映画のラストシーン。
マスコミの2人の会話。
「塹壕の中は撮らなくていいのかい?」とのカメラマンに対し
「塹壕の中には何もないからつまらない」とリポーターは答え、現場を去る。
衝撃的な映像は撮れたから、テレビ的には問題ないと去る。

そして、映画のラストのカット。
頭の片隅で分かっていたけど、悪寒を伴う鳥肌が立った。
話の中心であるはずのことが、いつの間にかその中心から外れ取り残されてしまう。
犠牲者はいつだって世界中から取り残されて、忘れ去られていくんだ。


いろんな人間劇が行われている中で、地雷の上にただ横たわるツェラは何を想ったのだろう。チキとニノが言い争っていて「両方とも泥沼だ。もううんざりだ」っていう言葉が印象に残った。
そうだよな、もううんざりだよな。
世界中に、争いにうんざりしている人はどのくらいいるのだろう。


戦争映画だけど、戦闘シーンはほとんどありません。
戦争時のいろんな立場の人間がうまーく描かれている。
また、戦争という緊迫している映画のはずだが、その緊迫感が抜けるシーンもある。

美しい草原に青い空。
新聞でルワンダの記事を読んで「こんなにひどいことが起こるなんて」と叫ぶ兵士。
英語が分からないのに適当に「YES!」とだけ答える検問所の兵士。
ローリングストーンズのTシャツを着ている兵士。
・・・などなど。
監督さんはボスニア・ヘルツェゴヴィナ出身。
実際にボスニア紛争の最前線でカメラをまわした経験があるそうで、そういった経験も元になっているのかな。
だから、戦争の実際の戦闘以外の悲惨さのリアリティがある。

そして、一面的ではない。
戦争の無意味さがぐっと伝わる映画でした。
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地球でいちばん幸せな場所

「うちの家族はとっても仲良し」って歌を両親を亡くした孤児に歌われたら、自分はどんな表情をすればいいんだろう…。

「地球でいちばん幸せな場所」という映画を観ました。



あらすじ(Yahoo!より)
孤児のトゥイ(ファム・ティ・ハン)は叔父のもとを飛び出し、ホーチミンで花売りの仕事にありつく。最初の日の夜とその翌日、トゥイは屋台で食事をしていたフライトアテンダントのラン(カット・リー)、そして飼育係の青年ハイ(レー・テー・ルー)と立て続けに出会い親しくなる。トゥイはランとハイが恋人同士になればと思い描くが……。


ストーリーは客観的にみれば「ベタ」なのでしょう。
でも、なんだか心温まるような映画でした。
ストリートチルドレンの女の子が主人公なのに、映画のトーンが明るいんだ。


「うちの家族はとっても仲良し」と、ストリートチルドレンの花売りの子供たちが歌うシーンがある。
笑顔でいい表情で。
なんともいえない気持ちになった。


実際、ホーチミンに行ったことがあって、花売りの子どもがたくさんいたなぁ。
外国人を見つけると、子どもがやってくる。
1人から買うと、次から次へと子どもがやってくる。
そのことを分かっているから、買わなかった。
でも、なんだかすんごく、自分が冷たい人間なんだなぁ、と思ってしまった。
はたまた他の国では1人の子どもからは物を買ったけど、他の子がやってきても買わなかった。
そこでも、「1人の子から買ったけど、他の子から買わなかった」みたいな自己矛盾を感じたりした。
そんなことを思い出したりした。

今だったら、何も考えず買ってしまうお人好しな人間になっているかもしれない。
あ〜、でも例えば物乞いの人にわずかなお金をあげることに、何の意味もないのかもしれない。
だけど、お金をあげて相手がほんの少しでも命を永らえることができたなら、ほんの少しでも美味しい食べ物を食べられたなら意味はあるのかもしれない。
偽善の域を超えないけど、1人の人間がたった1人の人間でも幸せにすることは大変なことだから。
と思いつつ、それが相手を堕落させてしまっているのでは、という思いもついて回る。
東南アジアに行くと、いつも思う、答えの見えないことです。


映画の基本ベースは明るいんです。
チャーミングな恋愛です。
でも、その背景にストリートチルドレンや都市開発に伴う大気汚染の話が日常の中に溶け込んだ形で出てくる。
ジャーナリズムとかだったら、スポットを当てて取り上げるところを、日常の中に当たり前に存在するものとして、さりげなく映画に出てくる。

こういう環境で生きているんだぜ。
こういう環境で笑って泣いて恋をして生きてるんだぜ。
そこにいるのは、まぎれもない人間だ。
国は違えど僕らとかわりのない人間だ。



映画を見て思ったのは、どこの国も人間らしさを失わないで発展していって欲しい。
人間らしさを失わない社会の定義が難しいけど、そういう社会を目指さないと、貧困問題が解決しても生きやすい社会を構築することは出来ないだろうと自分は思う。
そして、映画を見てちょっぴり素直な気持ちになれるのでした。

あ〜、ベトナムの屋台でフォーを食べたくなった。




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2008年08月15日

世界の片隅で…

お盆のこの時期、通勤電車がすいていて、電車の冷房が寒く感じます。
ずっとこのまま、電車がすいていればいいのにな〜。


さてこのまえ映画で観た「闇の子供たち」の原作本を読みました。
映画でよく分からなかった部分が分かったり、映画と違う部分がいくつかあった。
本と映画でいろんなことがつながった。

こんなことが想像できるだろうか?
10歳に満たない子供が売春宿に売り飛ばされる。
HIVになり死んでいく。
生きたまま、臓器を取られる子供もいる。

自分に何が出来るのか。
あらためて問われる。

世界には想像を超える現実が広がっている。
現実は想像を超えないのかもしれない。
そのくらい人間には想像力が欠如している面があるし、だからこそ想像しなければならないんだと思う。

そうやって、目に見えてこない現実に近づく。
現実を知ることは大切だ。
でも、知っただけでは、ほとんど何も変わらない。

「何か」を変えなくちゃいけないと本能的に感じる。
でも「その何か」をはっきりと言うことができない。
思いつくのは、もぐら叩きを永遠と繰り返すような解決策だけ。

でも、ちょっと思った。
もぐら叩きを終わらせるような、根本的な原因を突き止めていくことも大事だけど、もぐら叩きをしながらでもほんの少しずつ変えていくこともできんじゃないかなー、と。

これまで出会った人と、少しでも幸せに生きていくために自分に何が出来るのか。
日本で出会った人、東ティモールで出会った人、カンボジアで出会った人、インドネシアで出会った人…。
人は人をもっと知るべきだと思うし、いろんな人と出会うべきである。
そうやって、共に生きていきたい人が1人ずつ増えていけば、世界は少しでも変わるだろうか。


テレビではオリンピックをやっている。
テロや紛争の映像が流れている。
音楽を聞いていると、こんなフレーズが耳にとまった。

「若き兵士が 愛しき者を守るため 殺し合うのは 美しい事だと本当に言えるのか(by the back horn)」

愛しき者を守りたいという気持ちは何よりも大切だ。
だけど、その気持ちが美しい行動に向かうとは限らない。
その気持ちは誰かへのキバに変わることもある。
人間である限り、キバを持っている。
そのキバが表に出ること、誰かを傷つけることが少なくなるような世界になることを願ってみたりする。

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2008年08月09日

崖の上のポニョ

崖の上のポニョ、観ました。
既に観たと言う知り合い数人からは、あまりよくなかったと聞いていたけど…個人的には好きです。

子どもに戻った気分。
そうすけもポニョもまっすぐだなぁ。
だけどそのまっすぐさは、恐ろしいものでもあるんだなぁ。

この映画に出てくる人は、みんな人としてかわいらしい。
誰だって、かわいらしいところを持っているんでしょう。
それが表に出るか出ないか、それを見てくれる人がいるかいないかの違いだけで。
宮崎駿の人に対するまなざしっていうのかな。
それが映画に現れていると思いました。

さて、映画を観ていて、分からないことが多い。
ほんと分からないことに説明がなくて、分からないまま。
「おっと、これはなんでだ??」と思うことがしばしば。

でも、世の中には分からないことがあるんだと感じることが、世界を深く知るための一歩だと思う。
自分は映画や本なんかで、分からないことがあると自分の中で勝手に想像する楽しみがあると思っている。
答えが用意された作品はスッキリするけど、それでおしまいだ。
それはそれでいいと思うし、構成のしっかりした名作がたくさんある。
だけど、自分は答えがない作品でもその答えのない部分を想像する楽しみがあって好きだ(人によってはそれを失敗作という人もいるけどね…)

ポニョは映画を批評するタイプの人間は、あまり見ないほうがいいかも。
映画は感じるものだと思う人は、見ると面白いと思います。

映画館では、子どもの笑い声が聞こえました。
それがなんだかとってもよかったです。



さて、まちをフラフラしていたら「東京都障害者総合美術展」というのをやっているのを発見し、行ってみました。
障害のある方のいろいろな作品がありました。
作品を見ていて、描きたいから描いたもの、作りたいから作ったものに溢れている気がした。
本当のアーティストは金や名声なんて関係なくて、作りたいから作る、それ以上の理由はないんだろうな、なんてことを思ったりもした。
明日まで池袋西武でやっているみたいですよ〜(入場無料)



それにしても、激辛ラーメンで有名な店でラーメン食べたのだけど…辛かった!
でも、食べているうちにだんだん慣れてきて、最後には美味しく感じました(笑)
汗だくになりながら、むさぼりました。
クセになるかもな〜。
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2008年08月04日

散文「ゴミ箱の中の宝物」

完全に趣味の世界なんであしからず。
朝起きたら、むわむわっとイメージが沸いてきた。
こんな感じの絵本を作りたい〜、でも絵がかけない(苦笑)


「ゴミ箱の宝物」

世界のどこかに宝物を探している人がいました
世界中を過酷な旅をして探していました
強い風に吹かれ、冷たい雨に打たれ、旅をしていました

ある時、光を放つ宝箱をみつけました
暗い暗い森の奥で見つけました
きらびやかで輝いていて、美しい宝箱です
きっとこの中に宝物が入っている
そう思いその人は大喜びです
持ってみるととっても重い
どんなに素晴らしい宝物が入っているのだろう
期待は膨らみます
その宝箱を大切に抱えて、家までの遠い道のりを戻りました

長い旅を終え、家に帰りました
さっそく宝箱を開けてみます
どんな宝物が入っているのでしょう
美しい宝箱なので、美しい宝物が入っているに違いありません
おそるおそる、手を伸ばして宝箱を開けてみました

しかし、入っていたものはただのゴミでした
世界中の汚いものが全て集まったかのようなゴミでした
その人は目が丸くなりました
こんなに美しい宝箱の中に、こんなに醜いものが入っているなんて


ゴミの入った宝箱に用はありません
その人はゴミ捨て場に宝箱を捨てに行きました
ゴミ捨て場に投げ捨てるように宝箱を置きました
「なんでこんなものを捜し求めていたんだろう
こんなに重いのに苦労して大事に持ってきたのだろう」
そんなことを思いました


ゴミ捨て場には、いろんなゴミが置いてありました
宝箱もたくさん捨ててありました
それは昔、その人が捨てた宝箱でした
熱い熱い砂漠で見つけた宝箱
寒い寒い雪原で見つけた宝箱
高い高い山の上で見つけた宝箱
深い深い谷の底で見つけた宝箱
どれも美しい宝箱でした
でも、どれも中身はゴミでした

その人はとっても悲しくなりました
苦労して宝箱を見つけても、いつも結果は同じです
どうして宝物を手にすることは出来ないのだろう

どの宝箱も外側だけは、今でもきらびやかに輝いています
その輝きを眺めていました
ふとその中にずいぶん古ぼけたゴミ箱があるのに気がつきました
よく見るとそれは、その人が旅に出る前に捨てたゴミ箱でした
「ずいぶん昔に捨てたのに、なんでまだ残っているのだろう」

そのゴミ箱はボロボロで汚れていて、見ているだけで嫌になりました
「このきれいな宝箱も、そのうちこんなにボロボロになるのだろうな」

なんとなく、ゴミ箱の中に目をやりました
ゴミ箱らしく汚いゴミがたくさん入っていました
「ゴミ箱も宝箱も、同じものが入っているのだねぇ」
どことなく悲しい気持ちで、ゴミ箱から目をそらしました

その人は肩を落として家に帰ろうとしました
すると、近くを通った小さな子どもが指をさして言いました
「あっ、何か光っている」
その人は子どもの指差す方を見ました
それは、昔その人が捨てたゴミ箱でした
よく見ているとゴミ箱の中が一瞬、小さく光ったように見えました
その人はゴミ箱の中をおそるおそるかきわけてみました
ゴミの気味の悪い感触が全身を襲います
でも、その中にはっとする感触がありました
それを思いっきり取り出してみました
なんと、それはその人の探していた宝物だったのです


薄汚れてはいますが、小さく光っていました
その輝きは宝箱の輝きより美しく見えました


その輝きを見ながら宝物のことを考えました
昔はそれが宝物と気がつかずに捨てたのだろうか
ゴミと一緒に間違って捨てたのだろうか
ゴミだったものが、長い時間で知らぬ間に宝物になったのだろうか
長い旅をすることで、宝物の光に気がつけるようになったのだろうか
でも、今となってはどれが正解なのか分かりませんでした

その人は、ゴミ箱のゴミを宝箱に入れました
宝物をゴミ箱の中に入れました
そして、大事そうに宝物の入ったゴミ箱を抱えて、家に帰りました
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2008年08月03日

闇の子供たち

「闇の子供たち」という映画を観た。

あらすじ
日本新聞社のバンコク支局駐在の南部(江口洋介)は、東京本社からタイの臓器密売の調査を依頼される。同じころ、恵子(宮崎あおい)はボランティアとしてバンコクの社会福祉センターに到着する。彼女は所長から、最近顔を見せなくなったスラム街出身の少女の話を聞くが、実は彼女は父親に児童性愛者相手の売春宿に売り飛ばされており…。



人身売買、児童売春、臓器売買、エイズ…。
社会の闇の部分にスポットがあてられた映画。
多少知ってはいたが、こう映像として見せられると衝撃がある。



児童売春も臓器売買も需要があるから行わされる。
法や防止の仕組みがいくら整っても、需要がある限りゼロにはならない。
ならば、需要を減らすことは出来ないだろうか。
児童売春の需要は人間の欲望がもたらすもの。
買春をする人間の気持ちは、自分には分からない。
買春をする人間を生んでしまう原因を探りそれを社会や教育に反映させることが出来れば、この需要を減らすことはできるかもしれない。
いや甘いか…。


臓器売買はどうだろう。
生きるためには誰かから臓器を提供してもらう必要がある。
でも、違法なルートを使わなければ、死んでしまうかもしれない。
人間から「生きたい」という欲求を消すことは不可能だ。
自分の子どもが臓器提供が必要だったら、悪にでもなった気持ちで闇のルートを使う気持ちは分かるような気がする。

経済的な強者と弱者が存在する限り、臓器売買は消えないのかもしれない。
(可能性があるならば、ES細胞を利用した再生医療が確立することぐらいかな)


供給の側では、親が「生きるために」子供どもを売る。
エイズになって命からがら戻ってきた子どもは、家族から隔離されてしまう。
どこにも救いはない。


児童買春も臓器売買も犠牲になる子供のことを思うと、ただただ胸が苦しくなった。
どうしようもないように見える現実が、目の前に立ちふさがる。


自己矛盾を抱えた主人公。
自己矛盾ってやつは、一度抱えてしまうと、薄れることはあっても完全に消えることはないんだと思う。
自分の憎悪の先、自分も当事者。
人間はたぶん、自分の思う悪に自分がなっているという認識に耐えられるほど強くはない。
もし、そうなりそうになったら、適当に誤魔化して生きていくか、正直者は精神がもたなくなるか…。




残酷な現実は、今現在の世界において、命は平等ではないのだ。
でも、未来において、命は平等であって欲しい。
経済格差があったとしても、命だけは平等であって欲しい。



事実を知ることは、時に辛いこと。
様々な問題点が分かっても、1つ1つは点でしかなくて、全体像を見渡そうとすると途方にくれる。
全体像を見渡すには、点を多く集め、その点を結んでいく作業が必要になる。


闇の子供たちを一人でも少なくするには、山のようにやることがある。
何からどう手をつければよいのか、確かな答えを持っている人間はいないだろう。
何をしても変わらないかもしれないけど、何かしなければ変わることはない。
実際に「行動」として個人が関われることは、小さな小さな問題点の1つに取り組むことなんだ。
でっかいことをやるのもいいけど、1つの問題に取り組んで、それが他の問題に取り組んでいる人間と有機的に結びつくような意識を持ってやっていくのが重要だと思う。





映画として、いろんなことを詰め込め過ぎた感があるけど、逆に考えれば、それだけ1つの問題はいろんな他の問題に派生しているのだなぁ、とも思った。
闇の中では、何も見ることが出来ない。
光があたったとして、視界に何か入っているのに、認識できていないこともある。
闇に光を当てて、それを誰かに認識してもらうのが、「伝える」ってことなんだな。


…いろんなことが詰め込まれた映画なんで、書いてる感想も収集がつかなくなってきたのでこの辺で…。



最後に。
帰りの駅で、人身事故で電車が遅れるとのアナウンスが入った。
夏のけだるい空気の中、人々がざわめく。
このアナウンスを聞いて、人身事故の人にちょっとでも想いを馳せる人と、「電車が遅れるなんて冗談じゃない」と思う人のどちらが、この国は多いのだろう。
そんなことを駅のホームで思ったりもした。
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