2008年07月08日

市民と政治


洞爺湖サミットは自然豊かな場所で行われている。
テレビのトップニュースで伝えられはするが、遠い世界。
どのくらい、世界の声が首脳陣に届くのだろうか?


政治家は本当に世界のことを分かっているのかと、苦しんでいる人のことを考えているのかと思うことがある。
でも、政治家に「もっと市民の声聞けよ!」と思う時、自分は周りの人間が苦しんでいる時、悲しんでいる時、その声やシグナルに気がつけているのか、と思ってしまう。
気がつけていないことはあるだろうし、へたすりゃ傷つけていることだってあるんだろう。
そんな「自分」と「市民の声を聞いていない政治家」に差はあるのか?
全く次元の違う話なんだけど、でも、自分を棚にあげてえらそうに物事を言うことが出来なくなった。
ただ不平を言うだけなのが、ものすごく嫌になった。

だから、出来る限り知識を集めて、ただの不平・不満にはならないようにしようと思った。
不平・不満を言うんじゃなくて「まともな対案」を出したいと思った。
でも、世界の問題は複雑化して高度化して、勉強しないと訳の分からないことばかり。
勉強しても訳の分からんことばかり。
やべー、どうしようもねー。
…そんな高校時代(苦笑)





とあるアニメでこんなセリフがある。
「政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることじゃない。それは個人の腐敗であるにすぎない。政治家が賄賂をとってもそれを批判することができない状態を政治の腐敗というんだ」

このセリフを思い出して、こんな風に思った。
「政治家の政策がダメなだけでは、政治の堕落ではない。政治家の政策に意見できない社会が政治の堕落であり社会の堕落だ」

でも、政策に意見するためにはそれなりに勉強していないとそれなりの意見を構築するのは困難だ。
なんでこんなに難しい問題が世界には山のようにあるのだろう。


世界の問題が複雑化していることもあって、根源的に市民と政治が分離の方向に動かされる危険性をはらんでいるんだと思う。
だからこそ、市民と政治家の両方に求められるものが出てくる。
市民には少しでもいいから世の中の問題を知る努力を、政治家にはもっと市民の声を聞く努力を。
その両方がなければ、市民と政治は離れる一方だろう。


というか、本当は政治ってうちらの生活の一部のはずなんだけどね。
いつの間にか切り離されている感がある。
たぶん、1つにはこんなサイクルがあるんじゃないかな。

世の中に何らかの疑問を持つ
→どうにかならんかな
→でも、政治家はあてにならんし
→かと言って、自分に何ができるんだ?
→解決すんの難しいし、ぶっちゃけ無理じゃね!
→あ〜、明日も早いしはよ寝よう…。

こうやって人は「声」を失っていく。
問題が難しい上、日常が忙しい。
世界で何が起こっているのか、把握できなくなる。
自分の周りが幸せなら、それでいいじゃんという考えもある。
確かに、自分の周りをよくしていくことはとっても大事。
周りをないがしろにして、離れた場所のこと「だけ」を考えるのは、自分は違うと思う。

でも、例えば教室の片隅でいじめられている人間が、一人で全てを解決できると思う?
人間には問題を解決するための仲間が必要だ。
手を差し伸べるみたいな、大それたことじゃなくて、問題を共有する仲間が必要だ。

日本のどこかで、世界のどこかで苦しんでいる人間がいる。
その人たちの声は、今いる場所からは聞こえない。
世界中にあふれる声なき声。
一人で抱えている声なき声。
「声なき声」を「声」にするために、政治家でなくても世の中に関心を持つ必要が、21世紀の人類には必要かもね。
同じ地球に生きている仲間なら、その声を聞いてみよう。
もし政治家が遠い場所にいるのなら、声なき声を発する人に政治家よりは近い場所にいる市民が、その声に近づいていかないと。
そして、その声を伝わるように正確に発していく。
その問題を共有する仲間を広げていこう。
そうすることで、長い時間がかかると思うけど、政治が市民のモノになると思っている。


我ながらまとまっていないけど、この辺で〜。
posted by のっち at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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