2008年08月03日

闇の子供たち

「闇の子供たち」という映画を観た。

あらすじ
日本新聞社のバンコク支局駐在の南部(江口洋介)は、東京本社からタイの臓器密売の調査を依頼される。同じころ、恵子(宮崎あおい)はボランティアとしてバンコクの社会福祉センターに到着する。彼女は所長から、最近顔を見せなくなったスラム街出身の少女の話を聞くが、実は彼女は父親に児童性愛者相手の売春宿に売り飛ばされており…。



人身売買、児童売春、臓器売買、エイズ…。
社会の闇の部分にスポットがあてられた映画。
多少知ってはいたが、こう映像として見せられると衝撃がある。



児童売春も臓器売買も需要があるから行わされる。
法や防止の仕組みがいくら整っても、需要がある限りゼロにはならない。
ならば、需要を減らすことは出来ないだろうか。
児童売春の需要は人間の欲望がもたらすもの。
買春をする人間の気持ちは、自分には分からない。
買春をする人間を生んでしまう原因を探りそれを社会や教育に反映させることが出来れば、この需要を減らすことはできるかもしれない。
いや甘いか…。


臓器売買はどうだろう。
生きるためには誰かから臓器を提供してもらう必要がある。
でも、違法なルートを使わなければ、死んでしまうかもしれない。
人間から「生きたい」という欲求を消すことは不可能だ。
自分の子どもが臓器提供が必要だったら、悪にでもなった気持ちで闇のルートを使う気持ちは分かるような気がする。

経済的な強者と弱者が存在する限り、臓器売買は消えないのかもしれない。
(可能性があるならば、ES細胞を利用した再生医療が確立することぐらいかな)


供給の側では、親が「生きるために」子供どもを売る。
エイズになって命からがら戻ってきた子どもは、家族から隔離されてしまう。
どこにも救いはない。


児童買春も臓器売買も犠牲になる子供のことを思うと、ただただ胸が苦しくなった。
どうしようもないように見える現実が、目の前に立ちふさがる。


自己矛盾を抱えた主人公。
自己矛盾ってやつは、一度抱えてしまうと、薄れることはあっても完全に消えることはないんだと思う。
自分の憎悪の先、自分も当事者。
人間はたぶん、自分の思う悪に自分がなっているという認識に耐えられるほど強くはない。
もし、そうなりそうになったら、適当に誤魔化して生きていくか、正直者は精神がもたなくなるか…。




残酷な現実は、今現在の世界において、命は平等ではないのだ。
でも、未来において、命は平等であって欲しい。
経済格差があったとしても、命だけは平等であって欲しい。



事実を知ることは、時に辛いこと。
様々な問題点が分かっても、1つ1つは点でしかなくて、全体像を見渡そうとすると途方にくれる。
全体像を見渡すには、点を多く集め、その点を結んでいく作業が必要になる。


闇の子供たちを一人でも少なくするには、山のようにやることがある。
何からどう手をつければよいのか、確かな答えを持っている人間はいないだろう。
何をしても変わらないかもしれないけど、何かしなければ変わることはない。
実際に「行動」として個人が関われることは、小さな小さな問題点の1つに取り組むことなんだ。
でっかいことをやるのもいいけど、1つの問題に取り組んで、それが他の問題に取り組んでいる人間と有機的に結びつくような意識を持ってやっていくのが重要だと思う。





映画として、いろんなことを詰め込め過ぎた感があるけど、逆に考えれば、それだけ1つの問題はいろんな他の問題に派生しているのだなぁ、とも思った。
闇の中では、何も見ることが出来ない。
光があたったとして、視界に何か入っているのに、認識できていないこともある。
闇に光を当てて、それを誰かに認識してもらうのが、「伝える」ってことなんだな。


…いろんなことが詰め込まれた映画なんで、書いてる感想も収集がつかなくなってきたのでこの辺で…。



最後に。
帰りの駅で、人身事故で電車が遅れるとのアナウンスが入った。
夏のけだるい空気の中、人々がざわめく。
このアナウンスを聞いて、人身事故の人にちょっとでも想いを馳せる人と、「電車が遅れるなんて冗談じゃない」と思う人のどちらが、この国は多いのだろう。
そんなことを駅のホームで思ったりもした。
posted by のっち at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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