2006年10月23日

散文の断片「断崖絶壁にたたずむ人」

ある青い空の下での出来事です。
一人の旅人と一頭の馬が旅をしていました。
ある時、断崖絶壁にたどり着きました。
谷底には深い深い闇が広がっていました。
「うわー、こいつはすごいね!どうするの?」
「ここらに橋がかかっているはずなんだけど」

少し谷沿いに進むと、断崖絶壁にたたずむ一人の人がいました
「あそこに人がいる。この辺に橋がないか聞いてみよう」
旅人は声をかけました。
「こんにちは」
その人は少しびくついたかのように見えました。そして旅人を振り向きました。
その顔は頬がこけて宙に浮いた目をしていました。
「・・・こんにちは。何か」

「この辺りに橋はありませんか?」
「橋ですか・・・。昔のことですが、橋があるということは聞いたことがあります。だけど、どの方向にあるのか記憶は曖昧ですし、今はもうないかもしれません」
「そうなのですか。少なくとも、昔聴いた話では橋はあったのですね?」
「まぁ、そういうことになります。すみません、何の役にも立てずに」
「いえいえ。ところで、あなたはここで何をしていたのですか?」
「・・・ここを飛び降りようとしていました」
旅人と馬は絶句しました。

「もしよかったら、その理由をお聞かせ願いませんか?通りすがりの者ですから気楽に」
その人は少し考え込みましたが、
「そうですね。どうせ自分は死ぬのです。最後にあなたに話を聞いてもらいたいと思います」
と言いました。
それを聞いて馬は、
「あーあ。やっかいなことにならないといいけど」
と独り言を言いました。

「これまで、誰にも本音を悟られないように生きてきました。なぜ、そんな生き方になってしまったのか、はっきりとは分かりません。
ある時、とても信頼できる人と出会いました。その人にだったら、自分を分かってもらえると思いました。
そして、死ぬような想いで心を開きました。これまで心を閉ざして生きてきたので、本当に死ぬ思いでした。けれども、その開いた心を相手にせせら笑われました」

「・・・その後も何人か信頼できそうな人と出会いました。だけど、いざ心を開いて話すと無視されたり、聞いているふりだけされたり、その時は真剣な姿を見せますが2度と話を聞いてくれなくなった人もいました。
誰かに受け入れてもらえればどんなにいいだろうと思います。だけど、それは難しいことですね」
「そしてこの長く深い谷にたどり着きました。この谷の闇を見ていて、誰にも受け入れてもらえない自分はこの谷底の闇に消えたほうがいいんだと思いました」
旅人は時々うなずきながら、ほぼ黙って聞いていました。
「・・・やっぱ、軽蔑しますよね。死にたいと思う人間を。無価値な人間であると」

「あなたが死にたいという気持ちを、通りすがりの自分がとやかく言う資格はないのかもしれません。生きていればなんとかなるなんて生易しい言葉もあなたには不要でしょう。生きていてなんともならなかったから、ここにいるのでしょう。
でも、あなたはそれだけ苦しんでいるのだから、同じ苦しみを持った人に優しくできるかもしれない。苦しんだことのない人間に苦しんでいる人間の気持ちは分からないのですよ。でも、あなたにはそれが分かる。そしたら、あなたは価値があるといえるのではないでしょうか?」

「・・・そういうとらえ方もありますね。ところで旅人さんは、なぜ旅をしているのですか?一人がいいからですか?」

「裏切られたことはたくさんあるし、心の底から傷つくこともありました。それでも、誰かと生きることが出来ればいいと思って旅をしています。決して一人を望んでいるのではありません。
誰かに分かってもらいたいとは思います。分かってもらえないことはとても苦しい。でも分かってもらえなくても生きていたいし、旅を続けたいんです」

「そうなのですか・・・」
その人はどこか遠くを見やるようでした。
それは谷底を見ているようであり、谷の向こうの大地を見ているようでもありました。

「そういえば旅人さん。あなたは橋をお探しでしたね」
「ええ、そうです」
「わたくしもお手伝いいたしましょう。この辺りについては詳しいつもりですので」
「ええ!いいのですか?」
「別にいいですよ。死ぬことはいつでもできますが、あなたと橋を探すことは今しかできませんから」
その時のその人の顔は笑っていました。だけど、その笑顔は少し歪んでもいました。
「やれやれ、どうなることやら・・・」
馬はぼそりと独り言を言いました。

旅人はその人に言いました。
「ところでさっきの話、まだまだ話し足りないんじゃないですか?」
するとその人は驚いたように言いました。
「・・・そうです。まだ言いたいことのこれっぽっちも言っていない気がします」

見渡す限り谷は続いていて、橋は見当たりません。
その中を二人の人と一頭の馬は橋を探しに出発しました。
posted by のっち at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩・散文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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