2008年08月31日

動き出す!

「絶望のなかのほほえみ」という写真集を読みました。
カンボジアのエイズ患者を撮影した写真集です。

本の表紙に使われている写真。
女性が一人、ベットの上に座っている。
写真を撮る前にこんなやりとりがあった。
「いつ死ぬかもしれないから、その前に写真を撮っておくの」と彼女は言い、お化粧をしてきれいな服を着て…。
その撮影された写真を見ていて、心にグサリときて、何も言えなくなった。

この写真は生きた証。
命ってこんなにもかけがえのないものなのだよ。
そんなことを写真から感じた。


本の中にエイズ患者以外にも、ダンスを踊る若者や、ビールを美味しそうに飲む人の写真が数枚ある。
なんか、この差って何なんだろうね…。




さてさて昨日、何か新しいこと始めたいと考えている人たちで集まりがありました。
深夜まで、いろいろと話したな〜。
学生の合宿みたいな雰囲気で楽しかった。
カレー作ったり、畳の上にみんなでざこ寝したり(笑)

名前は「社会人でもできること」を略して「シャカ☆デキ」
1つプロジェクトも動き出します。
ゼロから作っていくのは大変だけど、わくわくしてきたぞ!
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2008年08月24日

アフガン、ロンドン、大阪

「アフガニスタンの子どもたち」という写真展に行きました。
写真提供はNGOのピースウィンズ・ジャパン。
現地の子どもたちに使い捨てカメラを渡して、子どもたちが撮った写真を展示していました。
アフガニスタンの人々の日常の風景を感じた。
写真からは苦しさとか悲しさじゃなくて、穏やかな雰囲気が伝わった。
それがとってもよかった。
展示会場にはアフガニスタンに駐在していたスタッフの方がいらっしゃって、いろいろとお話をすることが出来ました。
ご興味ある方はこちら参照:http://www.peace-winds.org/jp/news/archives/080815_1545.html



「この自由な世界で」という映画を観た。
あらすじ
一人息子を両親に預けて働くアンジー(カーストン・ウェアリング)は、勤め先の職業紹介会社をクビになる。
彼女は自分で職業紹介所を立ち上げようと決意し、ルームメイトのローズ(ジュリエット・エリス)を共同経営に誘う。
アンジーは必死にビジネスを軌道に乗せるが、ある日不法移民を働かせる方がもうかることを知り……。(シネマトゥデイ)


救いようのない労働者の現実を見たような気がした。
東欧などからの移民も多いロンドンを舞台にした話です。

主人公のアンジーは、仕事をクビになり生きていくために自分の子どものために、どうにかお金を稼ごうとする。
最初は法に触れない職業紹介所を開く。
ある時、取引先から不法移民を働かせる方がもうかることを聞かされる。
不法移民を働かせることは違法で、もうかる話を聞いても始めは拒否するが、手を染めてしまう。
でも、それを始めるキッカケを作ったのが、不法移民をしていて仕事がなく収入もない一家を助けたいという優しさから、と自分は映画から読み取った。
で、この映画のすごいのは、主人公がそこからさらに「お金を稼ぐため」に仕事に取り組む姿に戻ってしまう。
あ〜、金って怖い。
自由だと言われる社会で、お金に縛られて生きている。


先進国と呼ばれる国では、制度上自由は保障されている。
でも、その自由を社会的弱者は行使できる環境にあるのだろうか。

日本でも近い将来、外国人労働者の問題とか起きるであろうことだろうな。
もしも「今の経済規模を維持したい」のであれば、日本は少子化で労働人口が少なくなるから、海外から労働者を受け入れなくちゃいけなくなる。
日本社会は、摩擦や誰かの不幸を極力生むことなく、そのような時代を迎えることができるだろうか…。

それにしてもなんでこんなに社会に「差」があるんだろうな。
なんかの本に、国の崩壊する原因の1つに経済格差が広がりすぎることがあげられていた。
現代の世界の経済格差は歴史的に見てもかなり開いているらしい…。

そんなことを思っていたら、ニュースで福田首相が「GDPを世界10位以内にする」と言っているのを聞いた。
自分はこれは違うと思う。
社会をよりよくするために政治を行った結果として、GDPが世界10位以内に入るなら問題はない。
だけど、始めからGDP10位以内を目指すって、目標と手段を混同してるんじゃね、と思う。
GDPを上げることは、社会をよくする手段の1つに過ぎなくて、まんま目標とするのは何か違うと思う。
しかも、GDPが上がったからって、その恩恵を一般人が受けるとは限らない。



ジグムント・バウマン著「コミュニティ」という本をだいぶ前に買った本だけど、ようやく読み終わった。
久々にアカデミックな専門書だったんで、読むのに苦労した。
内容が「この自由な世界で」で取り扱われた題材と重なる部分があって、興味深かった。
もてはやされている「多文化主義」に関して、鋭い指摘をしていて、その先を見出そうとしている感があった。
人間同士の間で「差異」を感じそれが「不安」を生み「安心」を享受できず「排除」をしようとする。
でも、そこで大事なのは「他者同士で共通の人間性を探求すること」なんだろうな、と思った。
あ〜、なんだかちゃんと勉強したい。


昨日の夜は飲みました。
一昨日も飲みでした(笑)
昨日は大阪串カツのお店でした。
店員のおっちゃんが面白すぎ。
注文を受けると大きな声でギャグを連発する!
何と言っていたかあんま覚えていないけど、とにかくギャグ、ギャグ、ギャグ!!
大いに笑わせて頂きました(笑)
また行こうかな〜。
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2008年08月15日

世界の片隅で…

お盆のこの時期、通勤電車がすいていて、電車の冷房が寒く感じます。
ずっとこのまま、電車がすいていればいいのにな〜。


さてこのまえ映画で観た「闇の子供たち」の原作本を読みました。
映画でよく分からなかった部分が分かったり、映画と違う部分がいくつかあった。
本と映画でいろんなことがつながった。

こんなことが想像できるだろうか?
10歳に満たない子供が売春宿に売り飛ばされる。
HIVになり死んでいく。
生きたまま、臓器を取られる子供もいる。

自分に何が出来るのか。
あらためて問われる。

世界には想像を超える現実が広がっている。
現実は想像を超えないのかもしれない。
そのくらい人間には想像力が欠如している面があるし、だからこそ想像しなければならないんだと思う。

そうやって、目に見えてこない現実に近づく。
現実を知ることは大切だ。
でも、知っただけでは、ほとんど何も変わらない。

「何か」を変えなくちゃいけないと本能的に感じる。
でも「その何か」をはっきりと言うことができない。
思いつくのは、もぐら叩きを永遠と繰り返すような解決策だけ。

でも、ちょっと思った。
もぐら叩きを終わらせるような、根本的な原因を突き止めていくことも大事だけど、もぐら叩きをしながらでもほんの少しずつ変えていくこともできんじゃないかなー、と。

これまで出会った人と、少しでも幸せに生きていくために自分に何が出来るのか。
日本で出会った人、東ティモールで出会った人、カンボジアで出会った人、インドネシアで出会った人…。
人は人をもっと知るべきだと思うし、いろんな人と出会うべきである。
そうやって、共に生きていきたい人が1人ずつ増えていけば、世界は少しでも変わるだろうか。


テレビではオリンピックをやっている。
テロや紛争の映像が流れている。
音楽を聞いていると、こんなフレーズが耳にとまった。

「若き兵士が 愛しき者を守るため 殺し合うのは 美しい事だと本当に言えるのか(by the back horn)」

愛しき者を守りたいという気持ちは何よりも大切だ。
だけど、その気持ちが美しい行動に向かうとは限らない。
その気持ちは誰かへのキバに変わることもある。
人間である限り、キバを持っている。
そのキバが表に出ること、誰かを傷つけることが少なくなるような世界になることを願ってみたりする。

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2008年08月03日

闇の子供たち

「闇の子供たち」という映画を観た。

あらすじ
日本新聞社のバンコク支局駐在の南部(江口洋介)は、東京本社からタイの臓器密売の調査を依頼される。同じころ、恵子(宮崎あおい)はボランティアとしてバンコクの社会福祉センターに到着する。彼女は所長から、最近顔を見せなくなったスラム街出身の少女の話を聞くが、実は彼女は父親に児童性愛者相手の売春宿に売り飛ばされており…。



人身売買、児童売春、臓器売買、エイズ…。
社会の闇の部分にスポットがあてられた映画。
多少知ってはいたが、こう映像として見せられると衝撃がある。



児童売春も臓器売買も需要があるから行わされる。
法や防止の仕組みがいくら整っても、需要がある限りゼロにはならない。
ならば、需要を減らすことは出来ないだろうか。
児童売春の需要は人間の欲望がもたらすもの。
買春をする人間の気持ちは、自分には分からない。
買春をする人間を生んでしまう原因を探りそれを社会や教育に反映させることが出来れば、この需要を減らすことはできるかもしれない。
いや甘いか…。


臓器売買はどうだろう。
生きるためには誰かから臓器を提供してもらう必要がある。
でも、違法なルートを使わなければ、死んでしまうかもしれない。
人間から「生きたい」という欲求を消すことは不可能だ。
自分の子どもが臓器提供が必要だったら、悪にでもなった気持ちで闇のルートを使う気持ちは分かるような気がする。

経済的な強者と弱者が存在する限り、臓器売買は消えないのかもしれない。
(可能性があるならば、ES細胞を利用した再生医療が確立することぐらいかな)


供給の側では、親が「生きるために」子供どもを売る。
エイズになって命からがら戻ってきた子どもは、家族から隔離されてしまう。
どこにも救いはない。


児童買春も臓器売買も犠牲になる子供のことを思うと、ただただ胸が苦しくなった。
どうしようもないように見える現実が、目の前に立ちふさがる。


自己矛盾を抱えた主人公。
自己矛盾ってやつは、一度抱えてしまうと、薄れることはあっても完全に消えることはないんだと思う。
自分の憎悪の先、自分も当事者。
人間はたぶん、自分の思う悪に自分がなっているという認識に耐えられるほど強くはない。
もし、そうなりそうになったら、適当に誤魔化して生きていくか、正直者は精神がもたなくなるか…。




残酷な現実は、今現在の世界において、命は平等ではないのだ。
でも、未来において、命は平等であって欲しい。
経済格差があったとしても、命だけは平等であって欲しい。



事実を知ることは、時に辛いこと。
様々な問題点が分かっても、1つ1つは点でしかなくて、全体像を見渡そうとすると途方にくれる。
全体像を見渡すには、点を多く集め、その点を結んでいく作業が必要になる。


闇の子供たちを一人でも少なくするには、山のようにやることがある。
何からどう手をつければよいのか、確かな答えを持っている人間はいないだろう。
何をしても変わらないかもしれないけど、何かしなければ変わることはない。
実際に「行動」として個人が関われることは、小さな小さな問題点の1つに取り組むことなんだ。
でっかいことをやるのもいいけど、1つの問題に取り組んで、それが他の問題に取り組んでいる人間と有機的に結びつくような意識を持ってやっていくのが重要だと思う。





映画として、いろんなことを詰め込め過ぎた感があるけど、逆に考えれば、それだけ1つの問題はいろんな他の問題に派生しているのだなぁ、とも思った。
闇の中では、何も見ることが出来ない。
光があたったとして、視界に何か入っているのに、認識できていないこともある。
闇に光を当てて、それを誰かに認識してもらうのが、「伝える」ってことなんだな。


…いろんなことが詰め込まれた映画なんで、書いてる感想も収集がつかなくなってきたのでこの辺で…。



最後に。
帰りの駅で、人身事故で電車が遅れるとのアナウンスが入った。
夏のけだるい空気の中、人々がざわめく。
このアナウンスを聞いて、人身事故の人にちょっとでも想いを馳せる人と、「電車が遅れるなんて冗談じゃない」と思う人のどちらが、この国は多いのだろう。
そんなことを駅のホームで思ったりもした。
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2008年07月26日

孤独とレトロと

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今日は以前mixiで知り合った方の個展に行きました。
銀座のレトロな建物でありました。

「孤独は連鎖する」ってタイトルで、独自の世界がありました。
なんか上手く言えないけど、引かれるものがあった。
孤独そのものであったり、自分が誰かを孤独にしてしまう恐怖感であったり、孤独である事実に押しつぶされそうな気持ちであったり…。
そんなことを感じたりもしました。


余談ですが、この建物のエレベーターがまたレトロでした。
扉を自分の手で開け閉めをするのです!
始め、エレベーターがついてもちっとも開かず、「なんで?」と思いました。
すると、後ろの人がなんと入り口を手で開けました。
壊れているわけではなく、そういうもののよう。
銀座にまだこういうものが残っているのだなぁと、ちょっと興味深々でした。



「天安門、恋人たち」という映画を観ました。
天安門っていうより、性がテーマだったと思う。
こういう風に生きたら、こうなっちゃうよなー。
決して手に入らないものを望んでしまったら最後、感情のひっかかりは消えないものになるんだろうな。
そして、人生は重くなる。過去がいつの間にか重たい荷物でしかなくなるから。
「どうしてこうなっちゃんたんだろ、映画の人たちの人生」って思っちゃいました。


「遠くの空に消えた」という映画を観ました。
ほのぼのしました。
田舎に子どもという設定は、和みます。
頭を空っぽにして、楽しめる映画です。
むしろ、からっぽにしないと楽しめない。
子どもの頃、虫取りに行ったり、秘密基地を作ったことを思い出したりもしました。
そんな映画です。
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2008年07月21日

本当の自分

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昔の夢を見た。
夏の日の夢。

自分の人生の土台になっている出来事は、夏の出来事が多い。
夏になると、いろんなことを思い出す。




本当の自分を探していた
ずっと一人で探そうとしていた
何度か一人で自分らしさに近づいた気がしていた
でも、すぐに見失う
一人で自分なんて見つからない

人と一緒にいたかった
でも自分に出来たのは、ただ一人で言葉を吐いて、声を出して、突っ立って、突っ走って
未来を失って
そして誰も見えなくなる

太陽が暖かくても
青空に吸い込まれそうでも
冷たい雨に打たれても
何も変わらないような気がしていた

求めるものを見失い
手にしたものも失っていた


あのとき吹いていた風だけが頼りだった
異国の地で吹いていた熱い風
夜の星空の中で吹いていた涼しい風
田舎の生まれた場所で吹いていた優しい風

人間の存在はちっぽけではかなくて
風に吹かれながら生きていて
自分が自分であるために、誰かのためになれればと願った

自分が誰かの自分らしさの手がかりになれれば
自分の自分らしさを簡単に見失うことはないだろう
たとえ自分が自分らしさを手にすることが出来なくても
誰かの自分らしさに自分がきっかけになることができればそれでいい


もしも自分を見失い、未来を見失い、生きる意味も失った
そんなあなたの心につながることができれば、それ以上のことはない


住んでいる場所も富も貧しさも通り越して、つながること、感じること
涙と笑顔を共有して生きていく
そう思って、勇気を出して、太陽をもう一度、眺めてみた




たぶん、少しずつ少しずつ、自分のやりたいことが具体的に見えてきているんだと思う。
出来るかどうか分からないのなら、やったほうがいい。
自分の中での意思確認が出来た気がした。


あ〜、なんだか旅に出たい気分だ。
「NO TRAVEL、NO LIFE」って本や「Adventure Life」なんて本を読んでたり、「水曜どうでしょう」なんて見てると、飛び出したくてウズウズする(笑)
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いまここにある風景

暑い日が続きますね。
昨日、みこしをかつぐことになり肩が痛い者です。


今日はお出かけ。

「いま、ここにある風景」という映画を観た。
写真家エドワード・バーティンスキーによる、ドキュメンタリー映画。
中国での環境破壊を通して、地球全体での環境破壊や人間の存在について問われたような気がした。

人間は生きているだけで環境を破壊する。

映画の内容とはズレるんだけど時々、「地球に優しい」という言葉に「ん??」と思うことがある。
「地球に優しい洗剤」を使ったとして、地球が傷ついていないわけじゃない。
強烈なストレートパンチが、ただのパンチに変わっただけで、ダメージを与えていることには変わりは無い。
決して優しくはしていない。

持続可能な成長が必要とも言われているけど、その持続可能な成長がどの程度なのか判断すんのって、難しいよなー。
もし今の経済レベルを維持するようなものだったら、環境の破壊は免れないだろうとも思ってしまう。

著しく経済発展している中国を通して、環境、そして人間そのものについての現実を見せつけられるドキュメンタリーでした。


さて、映画の場所は恵比寿だったので、帰りにエビスビールを飲みました。
暑い日のビールは最高です。
エビスビールは美味すぎです。
夏限定のプレミアムってのを飲んだのだけど、ぐいぐい飲めてしまう(笑)
大学院で脳の研究している友だちと、世間話から脳の話だとか認識や存在についてまで話しました。


…こうやってビール飲んでいるのも、mixiやってんのもいろんな犠牲の恩恵を受けているわけで。
いつもここでいろんな矛盾を感じて、立ち止まってしまう。
傷つけながら、生きているという現実。
で、その中でどういう行動をとる?

自分一人に出来ることは、100のダメージを99にすることぐらい。
もちろん、1のダメージを減らすことにも意味はあるけど…。
現代の人間の生き方が、環境破壊なしに成り立たないものになっていると思う。

大幅にダメージを減らそうとすれば、ネックになるのが経済だ。
現在の資本主義経済と環境のバランスをどうとってやっていくか、ってな視点でいろいろ語られているけど、それが根源的に無理難題だったらどうすんだろ?
まったく新しい発想で解決していかなければならないのかもなー、というのが今のところの考えです。

…この話をし出すと着地点を見失うんだよな。
ただ思うのは、人間の力で大切なのは「正しいことをする力」ではなくて「誤りを修正する力」だと思っている。
だから、いろんなことを吸収しつつ、誤りに気がついたら修正して行動していくことが、様々な問題をいい方向に向けていくのに必要なんだ。
考えたり、見たり、聞いたりすることをやめてしまったら、もうどうすることもできないだろう…。


そうそう、西洋美術館のコロー展にも行きました。
きれいな絵を描く人だと思いました。
ゾクっとする絵は個人的に無かったけど、全体的に癒される絵が多かったと思います。
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2008年07月08日

市民と政治


洞爺湖サミットは自然豊かな場所で行われている。
テレビのトップニュースで伝えられはするが、遠い世界。
どのくらい、世界の声が首脳陣に届くのだろうか?


政治家は本当に世界のことを分かっているのかと、苦しんでいる人のことを考えているのかと思うことがある。
でも、政治家に「もっと市民の声聞けよ!」と思う時、自分は周りの人間が苦しんでいる時、悲しんでいる時、その声やシグナルに気がつけているのか、と思ってしまう。
気がつけていないことはあるだろうし、へたすりゃ傷つけていることだってあるんだろう。
そんな「自分」と「市民の声を聞いていない政治家」に差はあるのか?
全く次元の違う話なんだけど、でも、自分を棚にあげてえらそうに物事を言うことが出来なくなった。
ただ不平を言うだけなのが、ものすごく嫌になった。

だから、出来る限り知識を集めて、ただの不平・不満にはならないようにしようと思った。
不平・不満を言うんじゃなくて「まともな対案」を出したいと思った。
でも、世界の問題は複雑化して高度化して、勉強しないと訳の分からないことばかり。
勉強しても訳の分からんことばかり。
やべー、どうしようもねー。
…そんな高校時代(苦笑)





とあるアニメでこんなセリフがある。
「政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることじゃない。それは個人の腐敗であるにすぎない。政治家が賄賂をとってもそれを批判することができない状態を政治の腐敗というんだ」

このセリフを思い出して、こんな風に思った。
「政治家の政策がダメなだけでは、政治の堕落ではない。政治家の政策に意見できない社会が政治の堕落であり社会の堕落だ」

でも、政策に意見するためにはそれなりに勉強していないとそれなりの意見を構築するのは困難だ。
なんでこんなに難しい問題が世界には山のようにあるのだろう。


世界の問題が複雑化していることもあって、根源的に市民と政治が分離の方向に動かされる危険性をはらんでいるんだと思う。
だからこそ、市民と政治家の両方に求められるものが出てくる。
市民には少しでもいいから世の中の問題を知る努力を、政治家にはもっと市民の声を聞く努力を。
その両方がなければ、市民と政治は離れる一方だろう。


というか、本当は政治ってうちらの生活の一部のはずなんだけどね。
いつの間にか切り離されている感がある。
たぶん、1つにはこんなサイクルがあるんじゃないかな。

世の中に何らかの疑問を持つ
→どうにかならんかな
→でも、政治家はあてにならんし
→かと言って、自分に何ができるんだ?
→解決すんの難しいし、ぶっちゃけ無理じゃね!
→あ〜、明日も早いしはよ寝よう…。

こうやって人は「声」を失っていく。
問題が難しい上、日常が忙しい。
世界で何が起こっているのか、把握できなくなる。
自分の周りが幸せなら、それでいいじゃんという考えもある。
確かに、自分の周りをよくしていくことはとっても大事。
周りをないがしろにして、離れた場所のこと「だけ」を考えるのは、自分は違うと思う。

でも、例えば教室の片隅でいじめられている人間が、一人で全てを解決できると思う?
人間には問題を解決するための仲間が必要だ。
手を差し伸べるみたいな、大それたことじゃなくて、問題を共有する仲間が必要だ。

日本のどこかで、世界のどこかで苦しんでいる人間がいる。
その人たちの声は、今いる場所からは聞こえない。
世界中にあふれる声なき声。
一人で抱えている声なき声。
「声なき声」を「声」にするために、政治家でなくても世の中に関心を持つ必要が、21世紀の人類には必要かもね。
同じ地球に生きている仲間なら、その声を聞いてみよう。
もし政治家が遠い場所にいるのなら、声なき声を発する人に政治家よりは近い場所にいる市民が、その声に近づいていかないと。
そして、その声を伝わるように正確に発していく。
その問題を共有する仲間を広げていこう。
そうすることで、長い時間がかかると思うけど、政治が市民のモノになると思っている。


我ながらまとまっていないけど、この辺で〜。
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2008年07月07日

灯した光は何の色?

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ろうそくの上に咲く、小さな花
暗闇の中で 揺れて 怯えて
暗闇の中で 小さく光る

今は希望の火でも、争いの火でもない
ただそこで燃える小さな火
どんな火にするかは、人間の手が決める…

ただ静かな夜に、希望の光を願ってみる
ただ静かな夜に、小さく輝く光に願ってみる





今日は七夕ですね。
サミット初日だそうですね。
環境のことを考えようということで、全国で一斉に電気を消す「キャンドルナイト」が行われましたね。


今日は研修で早く帰れたので、以前バリ島で買ったアロマキャンドルをつけて電気を消してみました。
土産で買ったあまりもんです。
ろうそくの静かな灯りを見ながら、ぼんやり考え事。

…。

「ビロードのウサギ」という絵本を日曜に購入した。

なんか、そうだよねーと思う絵本でした。
ほんとうのうさぎになりたい、おもちゃのうさぎ。
でも、ぼうやにとってはほんとうのうさぎ。
とっても大切にされるうさぎ。
でも、大切にされていても、いつの間にか忘れられてしまうもの。

人の心って勝手だよなー、でもそんなもんだよなー。
うさぎには素敵な魔法が訪れますが、ちょっぴり切ない。
「ぼうやにとってのほんとうのうさぎ」から「だれからみてもほんとうのうさぎ」になって、「ほんとうに幸せ」なのかなー。

物語はハッピーエンド。
昔、ハッピーエンドの物語はあまり好きではなかった。
「ハッピーエンドに憧れて」って歌があるけど、ちょっとそんな感じ。
ハッピーエンドを受け入れてないくせに、誰よりもハッピーエンドに憧れてたような。
今はこういう物語も、昔よりは温かい気持ちで読める。
自分もずいぶん、まるくなってきているのかなー。


週末に後輩と話したことを思い出す。

国際協力そのものにジレンマをはらんでいるならば、1つ1つのプロジェクトをいくら修正したところでジレンマそのものを解消させることはできない。
何でもそうだけど、根本的な部分にメスを入れなければ、もぐらたたきと同じことで、問題は常に発生し続ける。
その根本を見抜くのは難しいし、根本を見抜いてそれを解決していくのはもっと難しいが…。


組織マネジメントとプロジェクトのマネジメント。
その片方にとってよきマネジメントがもう片方にとってマイナスのマネジメントになる場合。
そういったジレンマがあるとしよう。
そうなると、ジレンマをかかえながらその中で最良の方法を模索し「続け」なければならなくなる。
それは時にストレスのかかる作業だよなぁ。

…いくら考えても分からんまま。
分からないことをそのままにしておくのは嫌で考えるけど、こいつは死ぬまで考えるかもな。


ろうそくの火は相変わらず揺れている。


一時的に電気を消したところで、その影響は微々たるものだろう。
だけど、こう電気を消してろうそくの灯りの中で流れる時間って心地よいもの。
たぶん、このキャンペーンで大切なのはここなのかもしれない。
キャンペーン期間に電気の使用量を減らすことに一番の意味があるんじゃない。
絶対に必要なものと思い込んでいる電気を消して、時間を過ごしてみる。
あぁ、電気がなくてもいい時間を過ごせるじゃん。
そういう風に「感じる」人間が増えることが大切なんじゃないかな。

「電気を消して地球を守ろう」というメッセージも大事。
同時に「電気を消して、素敵な時間を過ごそう」みたいなメッセージもいいなぁ、と思う。
義務的にやるんじゃなくて、地球にとっても自分にとってもプラスになるようなものじゃないと、長続きしないからなー、と思ったり。
環境に負荷をかけすぎないライフスタイルが、多くの人間に魅力的なものに映れば、環境問題の解決の1つの方向性になると感じる。
それはたぶん、物質的・経済的なものを重視するスタイルから、「心」にスポットをもっとあてるスタイルなんだろうな。
1つ間違うとあやしい宗教や思想になりそうだけど、今よりも多くの人が幸せに生きられる社会って何だろうと、考え続けよっと。



蒸し暑かった外からの空気が、ほんの少しは涼しくなった。
蒸し暑いことにかわりはないけれど、ほんの少し心地いい。
そんな少しの変化を感じて生きているのが、電気を消した夜の時間。
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2007年05月20日

散文の断片「最後の始まり」

世界のどこかで、2人の人と1頭の馬が野宿をしていました。
1人は旅人で、もう1人はその地域の人間のように見えました。
夜空には星が顔を出しています。

2人は会話をしていました。
「星がきれいですね」
「ええ、星がきれいですね」

旅人に向かって、もう一人の人は言いました。
「あなたは荷物を私に任せてくれましたね。私を信じてくれたのですか」
「いえ、信じてもいませんし、疑ってもいませんでした」
「そうですか・・・、そうですよね」
「あまり人を信用して生きていないので」
旅人はこう答えました。
「性格が悪いんだよ。気にしないでね」
馬が言いました。

「私にも分かりますよ。裏切られるのが当たり前、人はいつか裏切るもの。
私はそう自分にそう言い聞かせることで、でたらめな毎日をなんとか乗り切ってきました。
・・・そして、そう考えている自分は醜いと思いました」
その人は吐き捨てるように言いました。

「そう生きていたんじゃ、死にたくもなるね」
と、その言葉に対して馬は言いました。
すると、
「相手にとって私はなんでもない存在なんです。なんだか不思議ですね。私にとって相手は特別な存在なのに、相手にとっての私は存在していないに等しいなんてね。
家族も友達も好きな人も、みんな同じでした。相手にとって私はなんでも無い存在、すぐに忘れ去られる存在でした」
とその人は言いました。
旅人は、
「人間関係なんて、そんなもんですよ。相手に望みすぎる方がいけないんです」
と答えました。
「今日は何時にも増して、言いますな。それも理解しがたい内容で」
馬はぼそっと言いました。


「人は思うように生きることが出来ない時、周りに誰もいなければ孤独になるのだと思います。
私の場合、誰からも愛されないまま人生は終わっていくんです。これは決定事項でしょう」
旅人に向かって投げ捨てるように言いました。
「決定事項か分かりませんが、そう簡単に誰かから愛されるようなものではないですよ。一生で一人でもいれば幸福です」
と、旅人は言いました。

「ところで、旅人さんはなぜ旅をしているのですか」
「何もいらないから旅をしているんです。ただそれだけです。人も物も何も望んではいません」
「何もいらない?」
「そうです。何もいりません。だからいつ死んでも構わないのです。精一杯生きることが出来れば、長生きする必要はありません」

何もない草原は静かです。
3っつの命以外、何も存在していないかのようでした。

「・・・あなたを信じてみようと思います」
「・・・はい??」
「これが最後だと思います。人を信じるのは」
旅人はやれやれ、といった表情をしていました。
相手からは暗くて見えていません。
「ねぇねぇ、これを最後にするの。やめた方がいいよ、ちゃんと相手を選んだほうがいいよ」
馬はしきりに言っています。

星は小さく輝いていました。
それは、優しい光なのか、冷たい光なのか、誰にも分かりませんでした。
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2006年08月15日

この日に思ったことの断片

終戦の日ですね。
目をつぶって亡くなった方々のことを思いました。
1日中マスコミは騒がしかったですね。
騒ぎすぎとも感じます。
僕の身内で「英霊」になった方はいらっしゃらないので、神社にはなんの感情も持っていません。
好きでもなければ、嫌いでもありません。
神社そのものについて肯定も否定もするつもりはありません。

この日はその神社の問題がいつも取り上げられますね。
賛成、反対どちらの意見にもそれなりの正当性があると思います。
最近はあとは好みの問題のような気さえします。
A級戦犯、アジア外交、国益、信教の自由、政教分離、神社の成り立ち、ナショナリズム、東京裁判・・・。
いろんな問題が存在して、それぞれについてそれなりに考えたりはしていますが、理論的に支離滅裂で納得のいく思考はできていない。
だが、少なくとも言えることは、今日は戦争で犠牲になった全ての人々に対して、自発的な慰霊を個人として行うのが理想だと感じています。
ここでは上記の問題ではなく慰霊について考えたことの断片でも書いてみました。

慰霊という行為は精神的な行為、つまり目に見えない部分で行われる行為であると考えます。
では、慰霊とはどこで行われるべきなのであろうか?
個人的には、その個人の宗教や信教に基づいて行われれば、それは立派な慰霊であると感じています。
だから、神社でも寺でも教会でも自分の家でも戦争で犠牲になった方々のことを思い、慰霊を行うことはできると思います。
一般人であるならば、他人に危害を加えない限りさまざまな慰霊の形があると思います。

しかし、国のトップにある人間がある特定の場所で慰霊を行うのには賛同しかねます。
宗教世界が具体化された場所を国家のトップが利用するのは、国民の持つ宗教の自由を間接的に歪めてしまう懸念があります。
国のトップの持つ人間の社会的影響力を考慮しなければならないと思います。
慰霊という行為は自発性を持って行われるべきであり、特定の宗教であれ無宗教であれ個人の慰霊の形に影響を与える行為を最も権力のある人間、つまり首相が行ってはならないと思います。
どんなに私人と言おうが、実質的には公人であるというのが個人的解釈です。
公人がマスコミや公衆の前で行う行為は当人の意図しない他者の精神に影響を与えてしまうことを考えて欲しい。

とは言うものの、現実的な視点で見れば全然だめな考えだな。
考えるべきことは山のようにあります・・・。
最後に、いつか静かな終戦の日が訪れることを願っています。
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2006年07月16日

映画「母たちの村」

母たちの村.jpg
こんな映画を観ました。
「母たちの村」
あらすじ
西アフリカの小さな村で、割礼を嫌がった4人の少女たちがコレのもとへ逃げ込んで来る。第一、第三ママや子どもたちと暮らすコレは、自分が割礼で苦労し、二人の子どもを死産した経験から、娘には割礼をさせていなかった。少女たちはそのことを知って、「モーラーデ(保護)」を求めて来たのだった。コレはそれを受けるが、伝統に逆らうコレの行為に村の男たちは大混乱になる。そしてモーラーデを止めさせようと、コレに様々な圧力をかけてくる。


特にアフリカで問題になっているFGM(女性性器切除)をテーマにした映画。
FGMについては少し本で読んだだけで表面上のことしか知らなかったのだが、根深い問題なのだと感じた。
長い間、伝統的に行われてきた事で文化という言葉では終わらせることのできない「誰かを傷つける行為」について、どうすればいいのか考えてしまった。
大きなアプローチとしては法規制などがあるだろう。
また、FGMが当たり前のものとしている人たちに違う視点に気がついてもらうことも必要だろう。
迷信や信仰というものは人間の思考を断絶する。
なんの根拠もなしに信じてしまうからだ。
だからこそ恐ろしいし、難しい。

伝統だとか文化だとか、そういう言葉で片付けてしまうのは最も危険な行為である。
自分は昔からある伝統や文化でも「守るべきもの」と「変えるべきもの」があると感じている。
ただ、その守るべきものと変えるべきものの判断も、また難しいそう。
少なくとも、FGMという伝統・文化は変えるべきものである。

映画の中ではジェンダー問題も垣間見れた。
男性優位な社会。
日本もまだまだ男性優位な社会に変わりないが、映画の中のアフリカはそれが顕著であった。
村社会の閉鎖性も恐ろしい。
それでも、映画で母たちが村の男性に対しFGMに異を唱える姿は力強く感じた。
先進国と呼ばれる国にいる自分は、社会的弱者でも頑張っている人間に対して、どういう関わり方がよいのだろうと思いを巡らせている状態です。

夏休み、どこか海外に行きたいな〜。
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2006年07月14日

壁の話

壁を越えれば明るい世界が広がっている。
うんざりするくらい、世の中ではこんなことが言われている。
そしてそんな中でどんなにつらいことがあってもこれまで生きてきた。
だけど、壁を越えたその先が明るい世界とは限らない。
もちろん明るい世界のこともある。
花畑が広がるような、青い空が広がるような、そんな素敵な世界が待っていることはもちろんある。
だけど、壁を越えれば必ずそんな世界が待っていると限らない。
不毛の土地なこともあるし、光の差さない世界のこともある。

たかが壁を越えただけで世界は変わらない。
変わるのは「壁を越えた」自分が少し変わるくらい。
それで、少し世界が変わったように見えるかもしれないけど、それは世界が
変わったのではなくて、世界をみる自分が変わったということ。

壁を越えたことで光がよく見えるようになることはある。
逆に壁を越えたことで闇がよく見えるようになることもある。
壁を越えて何も変わっていない、何も得ていない、ひどい時は苦しみを感じるのであれば壁を越えたことで、闇だとか暗いものがよく見えるようになって、そう感じてしまうのだろう。

だけど、だからって壁を超えようとしなければ人間は何も変わらない。
もう変化する必要のないくらい年老いたならまだしも、これっぽちも生きていない人間が壁を越えようとしないのは逃げ以外の何物でもないのだなぁと思う。
それは安易な自己正当化を許し、それ以上どこにも行くことができなくなる。
誰かのいう言葉を聞き、自分の中にうまく消化しなくてはいけない。
たぶん、自分は一生を通しても完成することはないのだと思う。
そんな間単に人間は完成しない。
でも完成に近づくことはいくらだって出来る。
posted by のっち at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月08日

ダブルスタンダード

とりあえず、ブログとmixi日記で同じことでも書いて遊ぼうと思ったけどやめた。
ブログとmixiの特徴を活かして違うものにしよう。
ただ、いくらでも書くことはあるけど時間がない。
mixiはある種、社交場的な感じなので、そういうのを目的としますか。
ブログの方は・・・、方向性を検討しましょう。
posted by のっち at 23:45| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月30日

さようなら、ゾロ目

昨日、僕はゾロ目と別れを告げました。
今度、君と会うのは10年後ですね。
10年後はどんな生活をしているのでしょう?
想像もつきません。
年をとることにたいした嬉しさを感じなくなりましたが、「おめでとう」と言われるのはとても嬉しいですね。

さて、子供の頃って1つ年を重ねただけで、ものすごく自分が成長したなーと思い込んだもんです。
何の根拠もないけど、1つ年が増えただけで大きくなった気がしていた。
こういう風に感じていたのは小学校までだったかな。
中学を超えると、年を重ねたからって大きくなっているわけではないと、ようやく気がついた。
20歳になった時は、全然人間として出来あがっていないのに、法的に社会的責任が色々と生じてしまい違和感を感じたりもした。

社会的な時間は待ってはくれないものですね。
年齢によって求められるものが変わってくる。
年齢というのはその人を見る尺度の一つとして使われてしまっているのだろう。
それがどのくらい合っているかどうかは疑問ですが。

ある方は「23歳を超えると時間が早いよ」という内容のことをおっしゃっていた。
おそろしい・・・。
その時の流れを楽しむくらいの余裕が欲しいものです。
posted by のっち at 21:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月10日

あぁ さみぃよさんからバトン☆

あぁ さみぃよさんからバトン受け取りました☆
それではやってみましょう♪

1:回す人を最初に書いておく(5人)

まずは、夜のドライブ仲間(!?)3人
ぼん。さん、しんろさん、だしだしさん

あと2人!
たかさん、おっくんさん

2:お名前は?

のっち

3:おいくつですか?

人生二度目のぞろ目、22歳。

4:ご職業は?

たぶん、学生です。

5:ご趣味は?

・音楽を聞く。しかし、外では聞かない。ライブに行きたい。
・音を聞く。世の中はいろんな音に溢れている。ある映画を観て気がつきました。それから、外でわざわざヘッドフォンまでして音楽を聞かなくなりました。
・映画を観る。ジャンル問いません。ただ、あまりに単純な映画は自分から観ません。
・散歩。歩きながらいろいろなものを見るのは楽しい。
・その他:文章を書く、星を見る、空を見る、本(漫画・小説・生物系・社会系)を読む、適当にキーボードをたたく、美術館に行く、スポーツ観戦など。

6:好きな異性のタイプは?
外見:目はポイント。
内面:悲しみを知った上で、優しさのあるような人。

7:特技は?

今日できることを明日に持ち込むこと。

8:資格、何か持ってますか?

資格取らないとな〜。

9:悩みが何かありますか?

壁を越えてもすぐ次の壁があるような。それも人生ってもんか。

10:お好きな食べものとお嫌いな食べものは?

好き:フルーツ全般、その他もろもろ
嫌い:トマト、ブロッコリー、セロリ、アスパラ。食えって言われたら食うけど・笑 

11:貴方が愛する人へ一言

ありがとうございます。

12:回す人5人を指名すると同時にその人の他者紹介を簡単にお願いします

ぼん。さん・・・僕にmixiを教えてくれた先輩。ルパンのテーマを聞くとドライブに磨きがかかる。
しんろさん・・・日常の出来事が彼にかかれば、面白くなる。そんな力を持つ人です。
だしだしさん・・・純度の高い心を持つ。これからさらに男に磨きがかかりそう。
たかさん・・・やる時はやる。褒めると伸びるタイプかな。
おっくんさん・・・大切なお友達です。研究&就活で忙しそう。がんばれ!

よかったらバトンを受け取って下さい☆


<ちょっとお知らせ>
少しの間、ブログの更新をお休みします。
いつ再開するかは未定です。
もしかしたら、もう書かないかもしれないし、気が変わって明日には再開しているかもしれません。
とりあえず、さようなら。
でも、皆さんの日記などへのコメントはしますので、これからもよろしくです。
posted by のっち at 12:50| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月08日

アフロな親子対決

今日の家庭教師後の話。
教え子が遊ぼうと言ってきた。
で、持ってきたおもちゃが「アフロの親子が対決するおもちゃ」であった。
正式名称は忘れました。
簡単に説明すると親子の人形があって、その人形にアフロのかつらをセットする。
アフロのかつらにはスイッチがあって、そこを押すと人形が回転する。
で、親子で激突し合い吹っ飛んだほうが負け、というおもちゃ。
人形の体の向きやポーズなどで、回転スピードが変わる。
それを利用して対決するわけだ。
童心に戻ったような気分で遊んださ・笑

それにしても、あのアフロの中身はどういう原理になって人形を回転させているのか、最後まで分かりませんでした。
posted by のっち at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月06日

宦官の話

奇跡的に事前にレポートを開始しました。
というか、スケジュールが厳しいから、時間の合間をぬってやんないと終わりません。
で、ワードを打っていると見事にフリーズしました・・・。

さて、突然だが「宦官」をご存知だろうか?
宦官とは去勢が施された官吏である。
世界のいろんな所であったらしい。
中国が有名かな。
ちなみにその中国(清)では1910年まで続いていたとか。
当時は一般人が科挙以外で偉くなるには、宦官になる以外ほとんどなかった。
だから、自分から去勢を行う者も多かった。
そして、手術で切り取ったものは大切に保管され、死んだ後には棺の中にそれを一緒に入れていたことも多かったらしい。
彼らはどんな気持ちで宦官になり、どんな気持ちで人生を送ったのだろう。

それにしても人間ってすごいことするなぁ、と思う。
そういう時代であったのか。
出世のためか、貧しさから逃れるためか。
現在から見たらなんて野蛮なと思うことである。
でも、100年後に現在がどう見られるのだろうか。
この時代は野蛮だと思われるのか、それともこの時代の方がよかったと思われるのか・・・。

今日の実験では、マウスに去勢手術を施しました。
posted by のっち at 22:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月05日

チリも積もれば手が痛む

いま僕は少し腱鞘炎になったかの気分です。
やっぱ、そんな大したことはありません。

実はノートにひたすら書いてました。
何を書いていたのかというと、携帯にメモったことをノートに書き写してました。
僕はふと頭に浮かんだ文章を携帯にメモったりしています。
それをたまに気が向いたらノートに書く作業をしています。
今回それをしたところ、7ページの分量になっていました。
まぁ、ちょくちょくメモってて2週間近く溜め込んでいたからですがね。
正直、疲れました。
これからは、こまめに書くようにしようと思いました。
そして、携帯メモを写した後に本日書こうと思っていたことを忘れてしまいました・・・。
posted by のっち at 23:39| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月04日

あうあ〜

久々に酔っ払いました。
ご迷惑おかけしましたm(_ _)m
今から眠ります。
おやすみなさい。
posted by のっち at 06:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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