2008年08月04日

散文「ゴミ箱の中の宝物」

完全に趣味の世界なんであしからず。
朝起きたら、むわむわっとイメージが沸いてきた。
こんな感じの絵本を作りたい〜、でも絵がかけない(苦笑)


「ゴミ箱の宝物」

世界のどこかに宝物を探している人がいました
世界中を過酷な旅をして探していました
強い風に吹かれ、冷たい雨に打たれ、旅をしていました

ある時、光を放つ宝箱をみつけました
暗い暗い森の奥で見つけました
きらびやかで輝いていて、美しい宝箱です
きっとこの中に宝物が入っている
そう思いその人は大喜びです
持ってみるととっても重い
どんなに素晴らしい宝物が入っているのだろう
期待は膨らみます
その宝箱を大切に抱えて、家までの遠い道のりを戻りました

長い旅を終え、家に帰りました
さっそく宝箱を開けてみます
どんな宝物が入っているのでしょう
美しい宝箱なので、美しい宝物が入っているに違いありません
おそるおそる、手を伸ばして宝箱を開けてみました

しかし、入っていたものはただのゴミでした
世界中の汚いものが全て集まったかのようなゴミでした
その人は目が丸くなりました
こんなに美しい宝箱の中に、こんなに醜いものが入っているなんて


ゴミの入った宝箱に用はありません
その人はゴミ捨て場に宝箱を捨てに行きました
ゴミ捨て場に投げ捨てるように宝箱を置きました
「なんでこんなものを捜し求めていたんだろう
こんなに重いのに苦労して大事に持ってきたのだろう」
そんなことを思いました


ゴミ捨て場には、いろんなゴミが置いてありました
宝箱もたくさん捨ててありました
それは昔、その人が捨てた宝箱でした
熱い熱い砂漠で見つけた宝箱
寒い寒い雪原で見つけた宝箱
高い高い山の上で見つけた宝箱
深い深い谷の底で見つけた宝箱
どれも美しい宝箱でした
でも、どれも中身はゴミでした

その人はとっても悲しくなりました
苦労して宝箱を見つけても、いつも結果は同じです
どうして宝物を手にすることは出来ないのだろう

どの宝箱も外側だけは、今でもきらびやかに輝いています
その輝きを眺めていました
ふとその中にずいぶん古ぼけたゴミ箱があるのに気がつきました
よく見るとそれは、その人が旅に出る前に捨てたゴミ箱でした
「ずいぶん昔に捨てたのに、なんでまだ残っているのだろう」

そのゴミ箱はボロボロで汚れていて、見ているだけで嫌になりました
「このきれいな宝箱も、そのうちこんなにボロボロになるのだろうな」

なんとなく、ゴミ箱の中に目をやりました
ゴミ箱らしく汚いゴミがたくさん入っていました
「ゴミ箱も宝箱も、同じものが入っているのだねぇ」
どことなく悲しい気持ちで、ゴミ箱から目をそらしました

その人は肩を落として家に帰ろうとしました
すると、近くを通った小さな子どもが指をさして言いました
「あっ、何か光っている」
その人は子どもの指差す方を見ました
それは、昔その人が捨てたゴミ箱でした
よく見ているとゴミ箱の中が一瞬、小さく光ったように見えました
その人はゴミ箱の中をおそるおそるかきわけてみました
ゴミの気味の悪い感触が全身を襲います
でも、その中にはっとする感触がありました
それを思いっきり取り出してみました
なんと、それはその人の探していた宝物だったのです


薄汚れてはいますが、小さく光っていました
その輝きは宝箱の輝きより美しく見えました


その輝きを見ながら宝物のことを考えました
昔はそれが宝物と気がつかずに捨てたのだろうか
ゴミと一緒に間違って捨てたのだろうか
ゴミだったものが、長い時間で知らぬ間に宝物になったのだろうか
長い旅をすることで、宝物の光に気がつけるようになったのだろうか
でも、今となってはどれが正解なのか分かりませんでした

その人は、ゴミ箱のゴミを宝箱に入れました
宝物をゴミ箱の中に入れました
そして、大事そうに宝物の入ったゴミ箱を抱えて、家に帰りました
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2008年08月03日

闇の子供たち

「闇の子供たち」という映画を観た。

あらすじ
日本新聞社のバンコク支局駐在の南部(江口洋介)は、東京本社からタイの臓器密売の調査を依頼される。同じころ、恵子(宮崎あおい)はボランティアとしてバンコクの社会福祉センターに到着する。彼女は所長から、最近顔を見せなくなったスラム街出身の少女の話を聞くが、実は彼女は父親に児童性愛者相手の売春宿に売り飛ばされており…。



人身売買、児童売春、臓器売買、エイズ…。
社会の闇の部分にスポットがあてられた映画。
多少知ってはいたが、こう映像として見せられると衝撃がある。



児童売春も臓器売買も需要があるから行わされる。
法や防止の仕組みがいくら整っても、需要がある限りゼロにはならない。
ならば、需要を減らすことは出来ないだろうか。
児童売春の需要は人間の欲望がもたらすもの。
買春をする人間の気持ちは、自分には分からない。
買春をする人間を生んでしまう原因を探りそれを社会や教育に反映させることが出来れば、この需要を減らすことはできるかもしれない。
いや甘いか…。


臓器売買はどうだろう。
生きるためには誰かから臓器を提供してもらう必要がある。
でも、違法なルートを使わなければ、死んでしまうかもしれない。
人間から「生きたい」という欲求を消すことは不可能だ。
自分の子どもが臓器提供が必要だったら、悪にでもなった気持ちで闇のルートを使う気持ちは分かるような気がする。

経済的な強者と弱者が存在する限り、臓器売買は消えないのかもしれない。
(可能性があるならば、ES細胞を利用した再生医療が確立することぐらいかな)


供給の側では、親が「生きるために」子供どもを売る。
エイズになって命からがら戻ってきた子どもは、家族から隔離されてしまう。
どこにも救いはない。


児童買春も臓器売買も犠牲になる子供のことを思うと、ただただ胸が苦しくなった。
どうしようもないように見える現実が、目の前に立ちふさがる。


自己矛盾を抱えた主人公。
自己矛盾ってやつは、一度抱えてしまうと、薄れることはあっても完全に消えることはないんだと思う。
自分の憎悪の先、自分も当事者。
人間はたぶん、自分の思う悪に自分がなっているという認識に耐えられるほど強くはない。
もし、そうなりそうになったら、適当に誤魔化して生きていくか、正直者は精神がもたなくなるか…。




残酷な現実は、今現在の世界において、命は平等ではないのだ。
でも、未来において、命は平等であって欲しい。
経済格差があったとしても、命だけは平等であって欲しい。



事実を知ることは、時に辛いこと。
様々な問題点が分かっても、1つ1つは点でしかなくて、全体像を見渡そうとすると途方にくれる。
全体像を見渡すには、点を多く集め、その点を結んでいく作業が必要になる。


闇の子供たちを一人でも少なくするには、山のようにやることがある。
何からどう手をつければよいのか、確かな答えを持っている人間はいないだろう。
何をしても変わらないかもしれないけど、何かしなければ変わることはない。
実際に「行動」として個人が関われることは、小さな小さな問題点の1つに取り組むことなんだ。
でっかいことをやるのもいいけど、1つの問題に取り組んで、それが他の問題に取り組んでいる人間と有機的に結びつくような意識を持ってやっていくのが重要だと思う。





映画として、いろんなことを詰め込め過ぎた感があるけど、逆に考えれば、それだけ1つの問題はいろんな他の問題に派生しているのだなぁ、とも思った。
闇の中では、何も見ることが出来ない。
光があたったとして、視界に何か入っているのに、認識できていないこともある。
闇に光を当てて、それを誰かに認識してもらうのが、「伝える」ってことなんだな。


…いろんなことが詰め込まれた映画なんで、書いてる感想も収集がつかなくなってきたのでこの辺で…。



最後に。
帰りの駅で、人身事故で電車が遅れるとのアナウンスが入った。
夏のけだるい空気の中、人々がざわめく。
このアナウンスを聞いて、人身事故の人にちょっとでも想いを馳せる人と、「電車が遅れるなんて冗談じゃない」と思う人のどちらが、この国は多いのだろう。
そんなことを駅のホームで思ったりもした。
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2008年07月26日

孤独とレトロと

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今日は以前mixiで知り合った方の個展に行きました。
銀座のレトロな建物でありました。

「孤独は連鎖する」ってタイトルで、独自の世界がありました。
なんか上手く言えないけど、引かれるものがあった。
孤独そのものであったり、自分が誰かを孤独にしてしまう恐怖感であったり、孤独である事実に押しつぶされそうな気持ちであったり…。
そんなことを感じたりもしました。


余談ですが、この建物のエレベーターがまたレトロでした。
扉を自分の手で開け閉めをするのです!
始め、エレベーターがついてもちっとも開かず、「なんで?」と思いました。
すると、後ろの人がなんと入り口を手で開けました。
壊れているわけではなく、そういうもののよう。
銀座にまだこういうものが残っているのだなぁと、ちょっと興味深々でした。



「天安門、恋人たち」という映画を観ました。
天安門っていうより、性がテーマだったと思う。
こういう風に生きたら、こうなっちゃうよなー。
決して手に入らないものを望んでしまったら最後、感情のひっかかりは消えないものになるんだろうな。
そして、人生は重くなる。過去がいつの間にか重たい荷物でしかなくなるから。
「どうしてこうなっちゃんたんだろ、映画の人たちの人生」って思っちゃいました。


「遠くの空に消えた」という映画を観ました。
ほのぼのしました。
田舎に子どもという設定は、和みます。
頭を空っぽにして、楽しめる映画です。
むしろ、からっぽにしないと楽しめない。
子どもの頃、虫取りに行ったり、秘密基地を作ったことを思い出したりもしました。
そんな映画です。
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2008年07月21日

本当の自分

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昔の夢を見た。
夏の日の夢。

自分の人生の土台になっている出来事は、夏の出来事が多い。
夏になると、いろんなことを思い出す。




本当の自分を探していた
ずっと一人で探そうとしていた
何度か一人で自分らしさに近づいた気がしていた
でも、すぐに見失う
一人で自分なんて見つからない

人と一緒にいたかった
でも自分に出来たのは、ただ一人で言葉を吐いて、声を出して、突っ立って、突っ走って
未来を失って
そして誰も見えなくなる

太陽が暖かくても
青空に吸い込まれそうでも
冷たい雨に打たれても
何も変わらないような気がしていた

求めるものを見失い
手にしたものも失っていた


あのとき吹いていた風だけが頼りだった
異国の地で吹いていた熱い風
夜の星空の中で吹いていた涼しい風
田舎の生まれた場所で吹いていた優しい風

人間の存在はちっぽけではかなくて
風に吹かれながら生きていて
自分が自分であるために、誰かのためになれればと願った

自分が誰かの自分らしさの手がかりになれれば
自分の自分らしさを簡単に見失うことはないだろう
たとえ自分が自分らしさを手にすることが出来なくても
誰かの自分らしさに自分がきっかけになることができればそれでいい


もしも自分を見失い、未来を見失い、生きる意味も失った
そんなあなたの心につながることができれば、それ以上のことはない


住んでいる場所も富も貧しさも通り越して、つながること、感じること
涙と笑顔を共有して生きていく
そう思って、勇気を出して、太陽をもう一度、眺めてみた




たぶん、少しずつ少しずつ、自分のやりたいことが具体的に見えてきているんだと思う。
出来るかどうか分からないのなら、やったほうがいい。
自分の中での意思確認が出来た気がした。


あ〜、なんだか旅に出たい気分だ。
「NO TRAVEL、NO LIFE」って本や「Adventure Life」なんて本を読んでたり、「水曜どうでしょう」なんて見てると、飛び出したくてウズウズする(笑)
posted by のっち at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いまここにある風景

暑い日が続きますね。
昨日、みこしをかつぐことになり肩が痛い者です。


今日はお出かけ。

「いま、ここにある風景」という映画を観た。
写真家エドワード・バーティンスキーによる、ドキュメンタリー映画。
中国での環境破壊を通して、地球全体での環境破壊や人間の存在について問われたような気がした。

人間は生きているだけで環境を破壊する。

映画の内容とはズレるんだけど時々、「地球に優しい」という言葉に「ん??」と思うことがある。
「地球に優しい洗剤」を使ったとして、地球が傷ついていないわけじゃない。
強烈なストレートパンチが、ただのパンチに変わっただけで、ダメージを与えていることには変わりは無い。
決して優しくはしていない。

持続可能な成長が必要とも言われているけど、その持続可能な成長がどの程度なのか判断すんのって、難しいよなー。
もし今の経済レベルを維持するようなものだったら、環境の破壊は免れないだろうとも思ってしまう。

著しく経済発展している中国を通して、環境、そして人間そのものについての現実を見せつけられるドキュメンタリーでした。


さて、映画の場所は恵比寿だったので、帰りにエビスビールを飲みました。
暑い日のビールは最高です。
エビスビールは美味すぎです。
夏限定のプレミアムってのを飲んだのだけど、ぐいぐい飲めてしまう(笑)
大学院で脳の研究している友だちと、世間話から脳の話だとか認識や存在についてまで話しました。


…こうやってビール飲んでいるのも、mixiやってんのもいろんな犠牲の恩恵を受けているわけで。
いつもここでいろんな矛盾を感じて、立ち止まってしまう。
傷つけながら、生きているという現実。
で、その中でどういう行動をとる?

自分一人に出来ることは、100のダメージを99にすることぐらい。
もちろん、1のダメージを減らすことにも意味はあるけど…。
現代の人間の生き方が、環境破壊なしに成り立たないものになっていると思う。

大幅にダメージを減らそうとすれば、ネックになるのが経済だ。
現在の資本主義経済と環境のバランスをどうとってやっていくか、ってな視点でいろいろ語られているけど、それが根源的に無理難題だったらどうすんだろ?
まったく新しい発想で解決していかなければならないのかもなー、というのが今のところの考えです。

…この話をし出すと着地点を見失うんだよな。
ただ思うのは、人間の力で大切なのは「正しいことをする力」ではなくて「誤りを修正する力」だと思っている。
だから、いろんなことを吸収しつつ、誤りに気がついたら修正して行動していくことが、様々な問題をいい方向に向けていくのに必要なんだ。
考えたり、見たり、聞いたりすることをやめてしまったら、もうどうすることもできないだろう…。


そうそう、西洋美術館のコロー展にも行きました。
きれいな絵を描く人だと思いました。
ゾクっとする絵は個人的に無かったけど、全体的に癒される絵が多かったと思います。
posted by のっち at 11:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月13日

いただきます

「潜水服は蝶の夢を見る」という映画を観た。
全身が麻痺してしまった男の物語。
唯一、まばたきだけはできる。
そのまばたきだけが、外部との意思疎通。
乙一の小説で全身麻痺になる物語を思い出したりもした。
(こっちは目も見えなくなっているんだっけかな…)

自分の中にあるものを外に表現するのは、五体満足であっても難しい。
なのに、声を失い、体も動かずまばたきしか出来ない中で、何が出来るだろう。
映画が体の動かない主人公の視点で描かれていて、伝わらないもどかしさが伝わる。
脳は正常だから、相手の言っていることは分かる。
だけど、相手に伝えられない。
本当はこう思っているのに、伝えることが出来ない。
ひどくもどかしい。


でも、彼はまばたきだけで本を書き上げる。
周りの人がアルファベットを読み上げていき、作りたい単語のアルファベットでまばたきをする。
その繰り返しで、単語を作り、文章を作っていく。
彼と彼の言葉を受け取る人の努力のたまものでしょう。


人間にとって自由って何なんだろう。
彼の体は動かない。
だけどイマジネーションの中で、自由に動き回る。
子どもを抱くことも出来ない。
だけど、見ているだけで幸せを感じる。

一人の人間がこの世に存在していること。
それは本当にかけがえのないこと。
せっかく生きているなら、感情を持って生きたい。
なんとなく、そう思った。

崩れ落ちた氷河が再生されていく。
大切なのは人の心。
失ったり欠けてしまったのなら、取り戻しに行こう。
なんてな。

…映画を観終わった後に実話と知る。



「いのちの食べかた」という映画を観た。
江頭2:50が「食のモダンタイムス」と言っていたけど…まさにそんな感じのドキュメンタリー映画です。
機械化の進んだ食料生産の現場。
肉があんなふうに、魚があんなふうに、野菜があんなふうに…。
ぞっとした。

効率性を追求した結果、いのちがいのちでなくなっている。


とある予備校講師がこんなこと言っていたなぁ。
「『いただきます』って作ってくれた人への感謝だけじゃないんだよ。『あなたのいのちをいただきます』って意味もあるんだよ」
うちらはいのちを食べることで、いのちを維持している。
それは、生きていく上で仕方が無いこと。

問題なのは、行き過ぎた効率性がその「いのちを食べている」意識を失わせているんじゃないかと思う。
「いのちは何よりも大切なもの」と雄弁に語るよりも、毎日食べているいのちに感謝して生きることが、第一歩なのかもね。

毎日食べているいのちを大切にできれば、人と人で争うことはあっても、殺し合うほどのひどいことにはならなくなるんじゃないかなー、と思ったり。
少なくとも、食べ物を大切にしようと思うし、いろんな場で捨てられる食物を「もったいない」「どうにかしたい」と思うだろう。

そういや小学生の頃、アフリカの難民キャンプの映像を見て、アフリカと日本をベルトコンベアーでつないで、日本で残った食べ物をアフリカに送ればいいじゃん、なんてことを思ったことがある(笑)
給食とかけっこう残ったりするから、それをアフリカまで、みたいな。
…これは無理だとしても、食料が先進国に渡りすぎているのは確かだから、(今の経済の仕組みの中では難しいけど)分配についても考えんと。

食料の値段が高騰したり、食品偽装が問題になっている中で、「食」については見つめなおす必要があるね。
posted by のっち at 19:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シークレットサンシャイン

「シークレットサンシャイン」という映画を観た。

自分の血が流れ出るような痛みを感じた。

大切な人の死を乗り越えられない。
憎んでいる相手を許したいのに、許すことが出来ない。
人間は、矛盾の塊だ。

人生は何があるか分からない。
時に人は乗り越えられない壁にぶち当たることがある。
そんな時、精神が正常で生きられないだろう。
心がだめになっていく。
自分には、そうなる状態がなんとなく分かる。
観ていて、本当に心が苦しかった。

でも泣けなかった。
安易に泣けない程、人間の闇を残酷に描いているからだと思う。
心にぽっかりと開いた穴。
そんな時、何かにすがりたくなる。
でも、すがるものが何もなくなったら、どうする?

心に支えが見当たらない。
支えがなくても、生きていかなくちゃいけない。
受け入れられないことがあっても、吐き気を感じながらでも生きなければならない。

苦しいことも辛いことも、誰にもいえない。
孤独を抱える。


宗教の描き方も、自分の知る映画の中ではトップクラス。
罪人の表情があんなにも晴れやか。
だけど、宗教によって「許す」ことを決意した彼女の表情は…。
なんで?どうして??
人間って時に悲しい生き物になってしまう。


でも、映画が終わって絶望はしなかった。
それは、人間をありのまま描いているから。
嘘のないありのままの姿には共感がある。
あぁ、自分と同じだ。
共感があれば、孤独ではなくなる。
孤独でなくなれば、絶望は消える。

絶望的なストーリーの中に、人間そのものが入っている。
人間そのものってことは、たとえ多大な負の中にあっても正があるということ。
一面性だけで、人間は語れない。
あのささやかな光が、あたたかなものであることを願う。



映画のところどころ、青空がすんごくきれいで。
映画館を出た後、思わず空を見た。
気がつけば7月で夏の空。
喜びも悲しみも、同じ空の下で起きているんだね。
posted by のっち at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月08日

市民と政治


洞爺湖サミットは自然豊かな場所で行われている。
テレビのトップニュースで伝えられはするが、遠い世界。
どのくらい、世界の声が首脳陣に届くのだろうか?


政治家は本当に世界のことを分かっているのかと、苦しんでいる人のことを考えているのかと思うことがある。
でも、政治家に「もっと市民の声聞けよ!」と思う時、自分は周りの人間が苦しんでいる時、悲しんでいる時、その声やシグナルに気がつけているのか、と思ってしまう。
気がつけていないことはあるだろうし、へたすりゃ傷つけていることだってあるんだろう。
そんな「自分」と「市民の声を聞いていない政治家」に差はあるのか?
全く次元の違う話なんだけど、でも、自分を棚にあげてえらそうに物事を言うことが出来なくなった。
ただ不平を言うだけなのが、ものすごく嫌になった。

だから、出来る限り知識を集めて、ただの不平・不満にはならないようにしようと思った。
不平・不満を言うんじゃなくて「まともな対案」を出したいと思った。
でも、世界の問題は複雑化して高度化して、勉強しないと訳の分からないことばかり。
勉強しても訳の分からんことばかり。
やべー、どうしようもねー。
…そんな高校時代(苦笑)





とあるアニメでこんなセリフがある。
「政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることじゃない。それは個人の腐敗であるにすぎない。政治家が賄賂をとってもそれを批判することができない状態を政治の腐敗というんだ」

このセリフを思い出して、こんな風に思った。
「政治家の政策がダメなだけでは、政治の堕落ではない。政治家の政策に意見できない社会が政治の堕落であり社会の堕落だ」

でも、政策に意見するためにはそれなりに勉強していないとそれなりの意見を構築するのは困難だ。
なんでこんなに難しい問題が世界には山のようにあるのだろう。


世界の問題が複雑化していることもあって、根源的に市民と政治が分離の方向に動かされる危険性をはらんでいるんだと思う。
だからこそ、市民と政治家の両方に求められるものが出てくる。
市民には少しでもいいから世の中の問題を知る努力を、政治家にはもっと市民の声を聞く努力を。
その両方がなければ、市民と政治は離れる一方だろう。


というか、本当は政治ってうちらの生活の一部のはずなんだけどね。
いつの間にか切り離されている感がある。
たぶん、1つにはこんなサイクルがあるんじゃないかな。

世の中に何らかの疑問を持つ
→どうにかならんかな
→でも、政治家はあてにならんし
→かと言って、自分に何ができるんだ?
→解決すんの難しいし、ぶっちゃけ無理じゃね!
→あ〜、明日も早いしはよ寝よう…。

こうやって人は「声」を失っていく。
問題が難しい上、日常が忙しい。
世界で何が起こっているのか、把握できなくなる。
自分の周りが幸せなら、それでいいじゃんという考えもある。
確かに、自分の周りをよくしていくことはとっても大事。
周りをないがしろにして、離れた場所のこと「だけ」を考えるのは、自分は違うと思う。

でも、例えば教室の片隅でいじめられている人間が、一人で全てを解決できると思う?
人間には問題を解決するための仲間が必要だ。
手を差し伸べるみたいな、大それたことじゃなくて、問題を共有する仲間が必要だ。

日本のどこかで、世界のどこかで苦しんでいる人間がいる。
その人たちの声は、今いる場所からは聞こえない。
世界中にあふれる声なき声。
一人で抱えている声なき声。
「声なき声」を「声」にするために、政治家でなくても世の中に関心を持つ必要が、21世紀の人類には必要かもね。
同じ地球に生きている仲間なら、その声を聞いてみよう。
もし政治家が遠い場所にいるのなら、声なき声を発する人に政治家よりは近い場所にいる市民が、その声に近づいていかないと。
そして、その声を伝わるように正確に発していく。
その問題を共有する仲間を広げていこう。
そうすることで、長い時間がかかると思うけど、政治が市民のモノになると思っている。


我ながらまとまっていないけど、この辺で〜。
posted by のっち at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月07日

灯した光は何の色?

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ろうそくの上に咲く、小さな花
暗闇の中で 揺れて 怯えて
暗闇の中で 小さく光る

今は希望の火でも、争いの火でもない
ただそこで燃える小さな火
どんな火にするかは、人間の手が決める…

ただ静かな夜に、希望の光を願ってみる
ただ静かな夜に、小さく輝く光に願ってみる





今日は七夕ですね。
サミット初日だそうですね。
環境のことを考えようということで、全国で一斉に電気を消す「キャンドルナイト」が行われましたね。


今日は研修で早く帰れたので、以前バリ島で買ったアロマキャンドルをつけて電気を消してみました。
土産で買ったあまりもんです。
ろうそくの静かな灯りを見ながら、ぼんやり考え事。

…。

「ビロードのウサギ」という絵本を日曜に購入した。

なんか、そうだよねーと思う絵本でした。
ほんとうのうさぎになりたい、おもちゃのうさぎ。
でも、ぼうやにとってはほんとうのうさぎ。
とっても大切にされるうさぎ。
でも、大切にされていても、いつの間にか忘れられてしまうもの。

人の心って勝手だよなー、でもそんなもんだよなー。
うさぎには素敵な魔法が訪れますが、ちょっぴり切ない。
「ぼうやにとってのほんとうのうさぎ」から「だれからみてもほんとうのうさぎ」になって、「ほんとうに幸せ」なのかなー。

物語はハッピーエンド。
昔、ハッピーエンドの物語はあまり好きではなかった。
「ハッピーエンドに憧れて」って歌があるけど、ちょっとそんな感じ。
ハッピーエンドを受け入れてないくせに、誰よりもハッピーエンドに憧れてたような。
今はこういう物語も、昔よりは温かい気持ちで読める。
自分もずいぶん、まるくなってきているのかなー。


週末に後輩と話したことを思い出す。

国際協力そのものにジレンマをはらんでいるならば、1つ1つのプロジェクトをいくら修正したところでジレンマそのものを解消させることはできない。
何でもそうだけど、根本的な部分にメスを入れなければ、もぐらたたきと同じことで、問題は常に発生し続ける。
その根本を見抜くのは難しいし、根本を見抜いてそれを解決していくのはもっと難しいが…。


組織マネジメントとプロジェクトのマネジメント。
その片方にとってよきマネジメントがもう片方にとってマイナスのマネジメントになる場合。
そういったジレンマがあるとしよう。
そうなると、ジレンマをかかえながらその中で最良の方法を模索し「続け」なければならなくなる。
それは時にストレスのかかる作業だよなぁ。

…いくら考えても分からんまま。
分からないことをそのままにしておくのは嫌で考えるけど、こいつは死ぬまで考えるかもな。


ろうそくの火は相変わらず揺れている。


一時的に電気を消したところで、その影響は微々たるものだろう。
だけど、こう電気を消してろうそくの灯りの中で流れる時間って心地よいもの。
たぶん、このキャンペーンで大切なのはここなのかもしれない。
キャンペーン期間に電気の使用量を減らすことに一番の意味があるんじゃない。
絶対に必要なものと思い込んでいる電気を消して、時間を過ごしてみる。
あぁ、電気がなくてもいい時間を過ごせるじゃん。
そういう風に「感じる」人間が増えることが大切なんじゃないかな。

「電気を消して地球を守ろう」というメッセージも大事。
同時に「電気を消して、素敵な時間を過ごそう」みたいなメッセージもいいなぁ、と思う。
義務的にやるんじゃなくて、地球にとっても自分にとってもプラスになるようなものじゃないと、長続きしないからなー、と思ったり。
環境に負荷をかけすぎないライフスタイルが、多くの人間に魅力的なものに映れば、環境問題の解決の1つの方向性になると感じる。
それはたぶん、物質的・経済的なものを重視するスタイルから、「心」にスポットをもっとあてるスタイルなんだろうな。
1つ間違うとあやしい宗教や思想になりそうだけど、今よりも多くの人が幸せに生きられる社会って何だろうと、考え続けよっと。



蒸し暑かった外からの空気が、ほんの少しは涼しくなった。
蒸し暑いことにかわりはないけれど、ほんの少し心地いい。
そんな少しの変化を感じて生きているのが、電気を消した夜の時間。
posted by のっち at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月03日

詩の断片「モノクロの虹」

どこかで君の声が聞こえた
この身を削って君の元にたどり着いた
でも、君は僕を望んではいなかった

遠くモノクロの虹を眺めていた
握り締めて離さずにいた想い
この手の中で、いつの間にかつぶしてしまった
つぶれても、重荷となってのしかかる
大切な何かを失っても生きていかなければならない厳しさが
前へ進むのを邪魔をする

簡単に切り捨てることができたとして
それは幸せなこと?
たとえ重荷であっても、捨てるときには苦痛を伴うものなのだ
重荷が消えるとき、君もいなくなる
そして、モノクロの虹が七色に輝きだすんだ
posted by のっち at 21:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 詩・散文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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